七転八倒堂

　その彼が、変装無しで歩けるはずもなく、帽子にサングラス、マスクはつけなかったが、そんな感じで久々に帰って来た地元の道を歩く。
「はは、てかワンコの癖にでかくなりすぎ」
　それで人を襲う気か？と言われて、「猿なら」と答える。
「ばぁか！そんな事してみろ！お前保健所に叩き込むぞ！！」
　けらけら笑う猿野を、ちらりと横目で見れば、レンズの入っていない視界にあの頃とちっとも変わってない姿が移る。
「猿襲ったくらいじゃ保健所には入れねえって、とりあえず。つか、野猿を山へ強制送還って感じだろ」
「はぁぁ？！俺は名前に猿がついてるだけで、高等な人間様だっつうんだ！つか、猿をなめんなよ！犬よか賢いっつーの。その点でも俺という人間はお前より上なんだな…」
「何が俺より上だ。どう見ても俺の方が上じゃねーか。」
　身長も、というと猿野がべえ～っと舌を出す。
「お前は子供か…」
「俺は永遠のネバネバランド！」
「ぷ。ネバーランドの間違いじゃねーのか…？ネバネバしてるところになんか行きたくねえよ」
「ふふ…この粘着質が堪らんのだ。あ」
「『あ』？」
「犬！アイス奢れ！！」
「何で俺が。」
「何でもかんでもあるか～！俺様の腰の容態を考えたらアイスの一本や百本は安いだろー！？このバカ犬万年発情期でもう俺困っちゃう…」
「テメエだって悦がってんじゃねーか」
　ふん、と鼻息荒く返すとバチコン！と頭を叩かれた。

　そしてもう毎年お馴染みのアイスを食べながら歩く。

　他愛も無い話題を繰り返し、
　笑い、怒りながら、歩く。

　こうして2人っきりで歩いていると、全ての嫌なことが忘れられて良かった。

　だからいつも俺は猿野を迎えに行く。
　だから俺はいつも猿野の名前を呼ぶ。

　それは弱いからだとは思いたくは無い。

「辰」
　とことこと、自分の家に向かう途中で、見なれたもみあげを見つけて声をかける。
「ああ、犬飼くん。…貴方変装してる意味無いですよ…」
　いくら目を覆い隠したところで、この長身に、この肌の色だ。
　確かにすぐに分かってしまうかもしれないが。
「テメーだって人の事言えねーじゃねえか」
　そのもみあげ世界中捜したってお前しかいねえよ、と言うと『トレードマーク』ですから、と笑った。
「それに、私は追いかけられる程イケメンでも無いのでこれくらいで充分なのですよ」
　くすくす笑いんがら辰は犬飼の持っていたアイスに目を向けた。
「今日も暑いですね」
「…俺のパピコは断固やらん」
「…ワタクシ、そんなに意地汚い犬に育てた覚えは…」
「っていうかお前に育てられた覚えはねえ、とりあえず」
「…口が少しは達者になりましたね…」
「そりゃいつもうるさい猿がいるからな」
　俺が言うと辰はちょっと目を大きくした。
「…そうですね。彼はともて口達者でしたから」
「あれは騒音の域だからな」
　辰は少し笑い、遠くを見る。
「あの日もこんな日でしたね」
「…？」
「貴方がよくぞ正気を保って下さったと…」
「？」
「ああ、済みません。私が考えなしでした。…では、私も線香をあげに行って来ますからー…」
「…なんの話だ？」
「…犬飼くん？」
「誰の線香をあげにいくって？」
　犬飼の言葉に辰はこの世に無いものを見るような目で此方を見た。
「…猿野…くん、の…ですよ」
「…そんなえげつない冗談は…」
「…犬飼くん…貴方…」
　ごくりと辰の喉が鳴った。
「猿野は…いるじゃねえか…ここに。ここに！」
　振り向いた先には、ただうだうだと伸びるアスファルト。
「俺が証明してやる！！ずっといたんだ！アイツは！！！」
　そうして踵を返した犬飼に、辰の声が響く。
「駄目です！！犬飼くん！！！！」
「猿野！！」

　いつまでも傍にいる、と笑った君。
　名前を呼べば、いつでも、いかなる時でも。
　どうしたって、駆け付けてみせるから。

「いぬかい」

　見れば、陽炎の向こう。
　猿野がにっこりと笑っていた。

「気付いちゃったんだな」

　少し寂しげな様子に、喉がひくついた。

「お前が呼べば、どこにでも駆けつける。だから…」

　こっちに来るな、と猿野は笑った。

「…うるせえ」

続く≫

≪new[3] NOVEL back≫

[0]TOP。