■【Lovers】■
06
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇side 普 窮鼠猫を噛む、という言葉がある。 以前日本から聞いたことがある言葉がプロイセンの頭の中をくるくると廻った。 追い詰められた側のする反撃は死に物狂い。それだけに手痛いものになる可能性があるだろう。 (追いつめちまったかも) 唇を離した時のイギリスの顔が脳裏に再生されて、プロイセンは小さく舌打ちした。 色事に長けているようで精神面は子供のような反応を示すイギリスを、追い詰める気は無かったのだ。 作戦とは何時もどのように勝利を収めるか、最短で最高のものを考え抜く。それが肝要。 対イギリスに措いてはゆっくりと外堀から埋める方が効果がありそうだと思っていた。 だから、追い詰めるつもりなど無かったのだ。 けれど、 (…あー…まずった…) 足早にキッチンから離れてリビングへと戻る。皿は忘れたのでダイニングテーブルを無視して、どかりと勢いよくソファに身を預けた。とてもじゃないが食事を続ける気分では無かったので丁度良い。 片腕で顔を覆い溜め息を吐く。 したのはキスだけだが、イギリスは追いつめられただろう。少し怯えたような揺れた翠の瞳がプロイセンを見つめていた。読みとれたのは期待と焦燥と滲み出る恐怖。特別で大事なものは作りたくないというバリアーのようなもの。 警戒心。 (本当まずった…よな) 踏み込み過ぎた。 そもそも、イギリスの言葉を上手く引き出してやって、緩んだ表情を見れただけで満足した筈だった。 ただあまりにも期待通りで、それからちょっと無防備だったから欲が出た。腕の中に少しの間だけ閉じ込めて、直ぐに解放するつもりだったのが予定違いになったのは、イギリスがあまりに初だったからだ。独占欲に浸食されるのを感じながら見つめ続けた。 イギリスは全身で自分の中に閉じこもって、こちらが火を消した事にさえ気づかない。皿の蒸気が消えるほど観察して、それで我慢が利かなくなった。 名前を呼んで、ゆっくりと覚醒した双眸の翠がプロイセンの瞳を捉えた。薄暗いキッチンで見た色の落ちた翠は僅かな光源を反射して興味深い色となって脳裏に刻みつけられた。見えない何かに押されるように瞼を閉じて、口付けて…。 唇が触れたのは僅かに数秒の事だった。 その接触に押されたように後退してプロイセンの腕にぶつかりずるりと沈む体を追ってもう一度唇を併せる。 深く考えるでも無く、無意識に舌を伸ばした。僅かに開いた唇から侵入して上顎を撫でる。びくりと反応した体を押さえつけて、絡めた。鼻にかかった吐息が甘過ぎて、それで漸く離れる事が出来た。 都合のいい事が即ち最善であるとは限らない。 甘い罠の可能性は否定できない。むしろその可能性は高い。 これは勘でしかないが、あれ以上追い詰める事は容易いだろうが、同時に全力で逃げられるだろうと思った。この手の感は外したことがないので尊重している。 今でギリギリ捕まえられる範囲といった所だろうか。 (…とりあえず適当な部屋を借りて引き上げるか…) 家主に断らずとも文句は上がらないだろうと踏んで、火照った神経を鎮めるように呼吸を入れ替えてから、プロイセンはイギリスの匂いの濃いリビングを後にした。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇side 英 心臓が止まるかと思った。 逸る心臓を押さえつけるように蹲る。頭も体も暴走して中々平常に戻ってはくれない。 (…畜生…なんだよこれ…!) 完全にキャパシティオーバーだ。これ以上の刺激には耐えられそうにもない。今すぐ、逃げ出したい。 リビングでプロイセンが動き出す気配がして体がびくりと縮こまり警戒態勢に入る。今来られたら、心臓が持たない。きっとなんとしてでも逃げようとするだろう。…果たして逃がして貰えるか…。 イギリスがじりじりとした焦りに身を固くしていると、予想とは反して足音は遠ざかっていった。ほっと息を吐く。とりあえずの猶予は出来た。それに安堵する。 (…何だったんだよさっきのは…) 体の警戒を解いてシンク扉に背中を預ける。どっと力が抜けて酷い疲れを感じた。全身から力という力が感じられない。 たかがキスしただけ。それでどうしてこうなるのだ。骨抜きという状態に相違ない。 自慢じゃ無いが色事に関しては擦れているなと思っていた。純情なんぞ芽生える前に摘み取られ、今まで欠片も持ち合わせていなかった筈だった。全くないとは言えないが、好いた惚れただのというのとは無縁の所にいたと思う。今後ともこんな浮ついた気持ちを持つなんて正直想像も出来なかった。 (怖い。) ハッキリとした感情の発露にイギリスは身を震わせた。 自分の体と心の反応が、とても怖い。 性感に対してだけ言及すると、プロイセンとした一度目は魔法が切れた反動もあって大変な事になったが、なんとなく流された二度目は1日経って落ち着いたのか、少しましになっていた。そう、少しマシになっていた。 きっと魔法が解ける前よりも、少し余計に反応する、くらいで収まっていると予想が出来た。それは多分間違いではない。 だが、今はどうだ? ああいう場面で理性を飛ばすのはおかしな事ではない。気持ちいい所を触られたら気持ちよくなるのが当然の話である。けれど、今は。 (背中が触れただけで自我をもっていかれそうな体たらくぶりってどういう事だよ…!) たかだか、数秒のキスで心臓が止まるかと思うような胸の充溢感が心底怖い。 濡れた唇を袖で擦る。じんと痺れた唇が余計に所在を告げているようで大人気なく視界が滲んだ。 「…どうしてくれんだよ馬鹿ぁ…」 呟いた言葉に当然ながらいらえは無かった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇side 普 やはり追い詰めてしまったのだろう。 はっきり言って、逃げられている。 朝出社するのは異様に早いし、帰って来るのは遅めである。それでも帰って来るだけマシというか、そこまで酷くは無かったと喜び、自らの判断を讃えるべきか。 (…ざまあねぇな) …今回はうっかり追い詰めてしまった事を反省するべきだろう。それをどう次に活かすか、だが…。 (まだ、調子よくぎゅーってやった方がマシだった…) 緩んだ顔を見て笑いながら抱きしめていた方が傷は浅かっただろう。 (…何もしねぇっていう選択肢はないのかよ…) 自らの思考に呆れて大袈裟に溜め息を吐いた。 「でも」と内なるプロイセンが自分自身に「仕方ないだろ」と告げたような気がしてプロイセンは「だよなぁ」とがっくりと肩を落とす。 肉体関係のある者が目の前で普段見せないような可愛いらしい顔をしていたら、何かしてしまうのが人としての性だろう。 こう見えて我慢強い方ではあると自負してはいるが、そこまで枯れてもいない。 「あー、くそー、イギリスの野郎〜」 これでもうイギリスに逗留出来る最終日である。会議自体は明後日であるが明日は荷物を纏めてホテルに入らねばならない。 (つーかホテルはどうすんだ?) 部屋は一緒なのだろうか?それとも別にとってあるのだろうか。 ホテルは開催国であるドイツ、弟が取ってはいるだろうが、イギリスはなんだかんだと理由をつけて別のホテルを取っているだろう。フランスが乗り込んで来るのを避ける為に。弟が会議前の打ち合わせに訪れる可能性もある。 だから、ホテルはイギリスがとっている筈だ。確認してはいないが、プロイセンの分も。 「一緒じゃねぇだろうなぁ…」 会議の前だしやる事があるからと言われれば、引き下がる他は無い。それ以前に今の状態でこれ以上押す事は避けるのが無難だろう。 「…あー、欲求不満だぜー…」 だからと言ってイギリスが出掛けた後の寝室で、人様のベッドに寝ころんで匂いを嗅いでもいいという事にはならないし、脳裏で「止めてくれ兄さん!」という悲鳴に近い弟の声もしたが、ほんの少しくらいは見逃して欲しいと思っている。好きな奴の体操服の匂いを嗅ぐのとはワケが違うはずだ。 (…だってなぁ…俺様もうこのベッドで寝たことあるんだぜ?) 二日目は当たり前のように寝室のベッドに通されたワケで…。 (ちょっと横になって深呼吸するくらい変態のうちには入らねーだろ?!) 微妙な所である。 「はぁ〜、これからどうするよ」 というか明後日の会議も心配である。 イギリスは公私はきっちりと分けるタイプではあるが、今のような態度で会議中ずっと手を繋ぐとか出来るのだろうかと心配になる。 フランスからの電話で揉めた時、他に手立てがある、というような事を言っていたが、もしかするとお役御免の可能性もありうるのだが…。 (そこまで避けられねぇ事を祈る) ドイツについた途端はいさよならでは立つ瀬がない。 プロイセンは僅かに薔薇の香りのするベッドの上で大の字になると、掃除を放り出して、寝不足を解消する事にした。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇side 英 困ったのはイギリスである。 (何でお前の残り香がするんだよ!) ベッドの話である。 寝室を別にした日は新品のリネンでそんな事は無かった筈だが、何故か翌日からプロイセンのケルニッシュワッサーの匂いがするではないか。 (お前人のベッドで何してんだよ!) 恐らくナニまではしていないと思うが、だからと言って許せるものでは無い。 むしろシーツを替えられない自分が許せない。 (…だって直接は触れねぇし…) だが、会議の日は嫌でも触れなければならない。これはその為の事前準備のようなものである。 (いや、だからって一人でする事は無いだろ…) まともに顔も合わせられない癖に一人でお楽しみとはこれいかに。 (…自分のペースで出来るから気が楽っつーか…) やっぱりこう、ベッドの上で横になっているとムズムズするというか…。 それで結局一発抜いて、シーツを替え、心地よく寝る…というのがここ数日のパターンである。 (…ここで昼寝するお前が悪いんであって俺は悪くない…と思いたい) イギリスは大袈裟に溜め息を吐くとベッドの端に腰を下ろした。 客人とは言えない客人ではあるが、放置したままにはしておけず、夕食は一応一緒に取っている。目は合わさないし、食べた後は後始末をしてさっさと部屋に戻ってはいるが。 だが、その生活も今日でおさらばだ。明日は午前中はゆっくりして、それからベルリンに飛ぶ 。 こんな格好ではあるし、ホテルは会場より離れた場所を取った。会場から離れた宿をとる言い訳としてわざわざ前日に用も作ってある。それはドイツも了承済みだ。 問題はそこではなく…。 「部屋がなぁ…」 やはりシングルを2つ取りなおすべきだったか。 会議前だしあからさまにおかしいとは思えない。 けれど、上司にこうなってしまった報告をしてから直ぐに手配してしまったのである、ツインを。 今となっては何故そんな馬鹿げた事をしたのかが理解出来ない。 (トラブルに見舞われて頭が発酵してたとしか言いようがねぇ…) 漏れるのは溜め息ばかりである。 (…でもなぁ…逃げ出したままっつーのもなぁ…) 本当は今からでも予約を取り直せない事はない。 でもそうやって会議まで引き伸ばして、協力だけして貰うというのも考えものだ。 外交用の面を貼り付ければ、手を繋ぐために生まれる動揺は上手く隠せるかもしれない。 呪いだなんだと言って会議を乗り切り、都合よく解呪できたからと言って家に帰す。イギリスは礼を言って国内にとんぼ帰りすれば、打ち上げに参加する奴らとも顔を合わせる事も無いだろう。 だが、他の奴らは兎も角、プロイセンの事は果たしてそれでいいのだろうか。 (…よくねぇよなぁ…) でも、だからといってどうすればいいのか、わからない。 どのように接して、どのような関係築けばいいのだろうか。 どういう風になりたいのだろうか。 …それがわからない。 性的対象として見ているのは確定事項として、 今まであったようなセックスフレンドとしての付き合いがしたいのだろうか…それとも… (…恋人…?ワケ分かんねーよ…) そんなもの、なれる自信も無い。 己が国だから、という面もある。だがそれ以上に自分の感情に信頼が置けない。 (…ちょっと優しくされただけで『好き』になっちまったら、続かねーだろ…) 自分を好意的に扱ってくれたから好きになるという事が悪いとは思わない。けれど、それだけでは続かない事は承知済みだった。 (形は違うけどな…) アメリカとの関係がその際たるものだろう。 懐いてくれて嬉しかった。出来るだけの事をしてやりたいと思った。出来るだけの事をしてやって、でもその見返りを求めた。 見返りを求める事も悪い事では無いだろう。ギブ&テイクでなければ上手くは回らない。ただ、それは強要する類のものでは無いだけで。 (…面倒臭ぇ…) 考えれば考えるだけ深みに嵌る。 何も考えず突進出来れば楽だろう。 だがそれが出来ないのがイギリスだ。 「あー…」 明日が来なけりゃいいのに。 そう思いながらベッドにダイブした。 ----------------- (※ケルニッシュワッサー=オーデコロン) ≪back SerialNovel new≫ TOP |