■【冬の陽だまり・夏の影】■
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「大丈夫か?」 身を清め、服を着替えさせて、眠るえるを抱きしめて数時間。 朝の光と共にゆっくりと瞼を開いたえるに向かってひっそり声をかけると、ゆっくりと瞼が数度開閉して照をぼんやりと眺めた。 「…私、…今日…どうしたんですっけ…?」 彼女はルゥとの生活の何一つ、覚えていなかった。 記憶は全て都合のいいように切り貼りされていて、ただ、その内の亡失を己の中でどう整理するかに悩んでいるようだった。それに伴い育んできた私への気持ちをも。 気持ちは、元に戻るだろうか? どちらに、戻るだろうか? 怖かった。恐ろしかった。 けれど、私に無理やり組み敷かれ、初恋であろう恋を踏みにじられた時でさえ強くあった彼女が、何度も体験した喪失に今度こそ転覆してしまったのだと知って、何も出来なかった。 どうして、これ以上傷つける事ができようか。 大切な人間が傷つくのを望むことができようか。 あぁ…。 そして、私は再び寝かしつけた彼女を眺めながらあるかなきかの溜息をついた。 あぁ…これが、あの人の気持ちか。 私が唯一の味方だと信じて、勝手に失望して傷ついた母の気持ちか。 思わず、涙が出た。 嗚咽はここで眠る人間を起こさないように噛み締め、無理やり飲み込んだ。 【冬の陽だまり・夏の影】 ―最終話― 薄暗い部屋にカラン、と氷の溶ける音が響き視線を落とす。 照はまた記憶の森へと沈んでいた事を思いだした。 そう、これは過去の出来事だ。 照は緩く息を吐き出しながらコンタクトを外した、あまり視界のよくない薄闇の中、病院のロゴのついた白い封筒をぞんざいな仕草で足元のゴミ箱に落とした。 それから、ゆっくり目を閉じる。 すると、今度は瞼の裏に、今日みたばかりの燦々とした陽の光の下の情景が意図せずとも浮かび上がった。 偶然に通りかかった公園で、彼女の輝くような笑顔を見た。 さわさわと珍しく気持ちの良い高い風が木々を揺らして、光が地表に宝石のように形を変える紋様を描いていた。その光と影に思いを馳せる。 優しく少し苦しく、そして心の底から浮かび上がるような思い出に身を浸すー。 彼女に出会わなければ、自分が乾ききっていた事にすら気付かなかっただろう。 余計なものを全て削ってきた私が、目に見えなかった沢山の感情を知ることは出来なかったに違いない。 何一つ理解できなかったに違いない。 世界はお前一つでこんなにも、明るい。 こんなにも、愉快で。 こんなにも、切なく悲しいのだと。 同時にそれでも幸せだということを。 知らなかった。 知ることができてよかった。 でも、思い出だけでは生きていけない。 私はそんなに強くは出来ていない。 強いだけの人間なんていやしない。 そんな事を今更ようやく、思い知った。 あの時、『すまなかった』と言った気持ちに二言はない。 愛する人間と引き離して悪かった。 そう潰れそうな胸の内で思った事は嘘ではない。 でも、けれど。 もしも、と思ってしまう。 もし、私が再び彼女の中から消えてしまうことの恐れに負けず、 もし、私が彼の彼女に対する愛情と飢えが、私と同一のものだと悟らず、 もし、もしも、彼女の中に出来てしまった空白の全てを埋めることが出来たなら―。 身の内の悲しさに激昂して拒否されたと絶望せずに、 彼が与えて、私が与えられなかったものを、与えることが出来たなら、 私が彼女を信じることさえ出来たなら。 また、運命は変わっていたのだろうかと。 きっと変わっていたのだと、 思ってしまう。 これほど、彼女を愛していなければ、きっと。 孤独は、知れば一層深い。 怖くて、怖くて堪らず、傷つけた。 愛故に。 『忘れてくれてもいい』と思ったのは私のはずなのに。 知っていたのは、私だけだったのに。 すまない。 すまない。 ルゥ、すまない。 すまない すまない ほんとうに。 それ以外に言葉が見つからない。 もし、私に新しい家族が与えられていたとしたならば、それはお前以外に他ならない。 だから、すまない。 それ以外に言葉がみつからない。 魂というものがあるとしたら、どこへ還るのだろうか。 輪廻転生というものがあるのならば、もう彼女の中へ還っただろうか? 出来れば、もう一度思う存分愛して貰えればいいと思う。 けれど、もしも、ふがいない私のことを待っていてくれているなら。 子供の作れない、私のために家族としてやってきてくれたお前にすべてを捧げよう。 そして、最後に我が母よ。 私の短慮と浅はかさを赦してくれるというなら、今度こそいい息子として、ルゥと私と、声さえしらない私の父と、もう一度。 家族になれるだろうか。 暖かい冬の陽だまりのような、場所で。 夏の影のようにやさしい空間の中で。 家族に。 どうだろう、 どう思う? 竜崎…。 える? お前に私の手はもう、必要ないだろう。 白い錠剤の入った瓶を手繰り寄せ、照は失笑する。 あれだけえるが幸せであれば、それだけで生きていけると思って。 この暖かい思い出だけで、十分だと思ったのに。 たった一つの事実の通知と、 幸せそうな笑顔のひとつで、こんなにも揺れるとは。 かくも、人間とは脆弱で愚かしい。 (私は愚かで仕様がない―…) けれども、今の私には、この暴挙を止める余裕を持ってはいない。 今度は初めて得た友と呼べる夜神に傷を負わせることになると思う。 だとしても、今の照には、その夜神を気遣う余裕すらないのだ。 ザラリと手の平に無数の錠剤を零し集め、 それを熱を失った眼で覗きこむ。 一瞬。 一瞬遅ければ、照はそれを飲み下していただろう。 けれども、虫の知らせのように鳴り響いた携帯が、静寂から照を引き止めた。 律儀な性格なのも手伝って、つい着信を見てしまう。 『夜神月』 こんな時間に一体何の用だろうか? もう夜の10時も越えていて、家族の団欒に…えるがいる傍でかけるべき名前では無いはずだ。 そう思った瞬間、背筋に悪寒が走った。 携帯を引っ掴むと、今まで手にしていた錠剤がザラザラと音をたてて落下し広がった。 通話ボタンを押す。 この世界に、 運命の神がいるとしたら、 神とは非常に残酷だ。 3部 ― 完 ― 第4部に続く。 ≪back SerialNovel 後書き≫ TOP |