■【この闇に沈む】■ 01


【この闇に沈む】

気付けば、太陽の明るさを思い出すことが出来ない。
本性の狂気を覆い隠し、ぽっかりと美しく照らす月の形を眺めながら夜神月はこんな事を思いだした。
『夜の神に月と書いて、やがみらいとと読むんです』
そんな風に自分以外の個とかかわったのはいったい何時の事だったろうか。
今やその名もこの闇と自己とを区別する記号に過ぎない。
彼はしっとりとした夜気に身を委ねながら僅かに口角を上げ、今日はやけにセンチメンタルな気分になるな、などと胸の内で一人ごちた。孤独という感覚すら忘却の果てにあったというのに。
彼、夜神月が人間世界の神でも無く、彼に人以上の力を与えた死神でも無く、夜を統べる神の成れ果てか、吸血鬼と呼ばれるモノとして息を吹き返したのは、彼がその事実を忘れ果てる程の遠い昔の話である。
それより彼のターゲットは、只人から同族へとシフトした。彼は人間を保護する為に鉢合わせた同族を片っ端に消して行った。後は漫然と人間の生き死にを眺めるだけ。
それ以外にする事が無かった。それだけが彼の生きる理由になった。
(…何で吸血鬼なんかになるかな…。ああいう場合生き返ってなるのは死神だろ?死神ならもっと有意義に生きられたものを…)
彼は吐息を漏らすと、空腹を紛らわせる為に目を瞑った。
彼が再び目覚めてより今まで、人の生き血を啜ったのはたったの2度。一度目は彼が目覚めた夜の事。
彼が闇より産まれ出た際、運悪く居合わせた老人を彼は襲った。白髪頭の既に枯れ木のような体を目にして、それでも本能の命ずるまま、その首筋に牙を立てた。
彼の思考が追いついたのは、ちゅうちゅうとその血液を取り込み、入れ物が空っぽになった頃。
人を大量に殺した記憶のある彼でも、土気色になり見る影もなく干からびた人体には叫び声を上げざるを得なかった。
彼の目の前にあったのは生ける人骨と言っても過言ではなかった。皮がついているだけ悲惨に思えた。
慌てて手放したその体は床に落ちるととても軽い音を立てた。彼の背中がまたぞっと冷えた。
人を殺めたと言っても、彼自身は手を煩わせることはなかった。ノートに名前を書き込むだけ。誰ぞの死の間際に立ち会ったこともあったが、いまいち彼のリアルとは噛み合わなかった。
だが、今は違う。彼が奪った命の素が彼の体の内に取り込まれている。咥内にはまだ血の余韻が残っている。
これに恐怖を感じない人間がいるだろうか?
挙句、彼を恐怖の底に叩き落した生ける人骨は、やがてムクリと起き上がった。そして、炯々とした瞳で彼を一瞥した後、背中に羽を生やしその場より消え去った。
彼は今でもあの出来事を忘れられないでいる。
生々しい血の匂い。
カサカサになった肌の感触。
軽くなった体の重み。その軽い音。
人を殺め、人ならざるものに造り変えてしまった罪の重さ。
それより彼は本能の命令を無視するようになったのだが、それでも全身を蝕む飢餓感に負けて、何度か人を襲おうとした事がある。生前に大量殺人を犯した経験を元に、気は進まないが、死んでもいい人間をターゲットにして自身との折り合いをつけようとしたのだ。
しかし彼の体は清らかな乙女とはいかずとも、清廉な、あるいは高潔な、もしくは知識高い人間の血にしか反応出来ず、我慢してレベルを落としたとしても普通に生きている普通の人間しか受け付けなかった。それを認識する度、食事を諦め空腹に耐えた。
だが、いつか生存本能に勝てなくなる日が来る。
その恐怖は再び彼を動かした。
プライド高き彼の思考は、恐怖より生じた拒食に『無駄な殺生はしない』という意味付けをしていたのだが、命を繋ぐための動かせない事実を前に、新たな理由を考えだした。
『産まれ直した意味を考えろ。吸血鬼は獲物を同族に変えてしまう。新たに生まれた同族はやはり血を欲するのだからこのまま行くと人類は滅亡する羽目になる。…だとしたら僕の使命は同族を根絶やしにすること。その為の多少の犠牲は仕方ないのだ』と。
けれども数えきれぬ歳月を経て、自らの意志の元に食事を実行したのはただの一度きりだ。

涼やかな風が彼の頬を撫でた。その風が甘く芳しい血の匂いを運んで来る。
抗い切れない本能の命令。
彼は瞼を震わせると、ゆっくりと瞼を起こした。
再び限界に近い。
無闇に命を狩る趣味は無いから食事の質には気を使う。端から下賎の血は受け付けないが、とりあえず小腹を満たすだけなら普通の人間で構わない…。しかし、質の良し悪しで満足度が違う事に気付いてしまった。
どこにでもいるような普通の人間で回数を重ねるか、
貴重な人間で回数を減らすのか。
彼は同族を増やさない為に獲物を始末しなければならない。
どちらが人間にとって有益なのだろうか。
彼は無駄を好まない。
己が命を繋ぐ為、どうしても吸血が避けられないのならば、最良の道を探さねばならなかった。
眼鏡にあう血を求めて、彼は翼を広げた。
2009.04.30


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