心臓が止まるかと思った。 もう二度とこんな思いはしたくない。 そうは思ったけれど、こんなに嬉しい事も、なかった。 『たったひとつのためだけに』 「メロ!!」 猫のような気まぐれそうな大きな目が、私の顔を映す。 その顔は怒ったり、笑ったりといつも大変そうで、私の心に仄かに熱が射す。 とても、面白い子だと思う。慕ってくれているのも分かる。それが何だかくすぐったい。 一緒に街へ出て、趣(オモムキ)深い雑貨屋さんであれこれに触れる。 人の良さそうな好々爺(コウコウヤ)に良さそうな万年筆を勧められた。 私はそれを気に入って、メロもそれを買うといいと言われたけれど、私はまだまだ駆け出し。良心的な値段ではあったけれど、ワタリから託されたお金を使って買う気には到底なれなかった。 メロは「今回はやめておきます」と言った私に、自分の方が残念そうな顔をして万年筆をそっと指先でなぞった。もう買い手がつきそうだというその万年筆に触れるメロに、「縁があればまた会えますよ」と私は語りかける。 そのまま店を出た私にメロは「だったら」と前置いて「大きくなったら、Lを絶対に継いで、とびっきり素敵なヤツを贈ってやる」と笑って「だから先行投資にあのジェラードをおごってもいんじゃないかと思う」と言って私を笑わせた。私は「それならば安いものですね」と言って、メロと自分の2つのジェラードを購入する。 そして、二人でぶらぶらとあてもなく歩いて、今に至る。 私は猫のような気まぐれな目でもって私を映す、彼に向かって声をあげた。 「あーん?ちょっと行ってくるな」 吹き飛ばされた、風船。 誰のものか分からないけれど、ゆらゆらと不安定に揺れているそれを見つけたのは、私。 少し高く感じる秋の空に、吸いこまれて消えてしまうだろう赤い風船を視界に捉えた私は、なんともいえず切ない気分になった。 昔からそうなのだ、何故だかわけもなく風船―――特に赤いやつだ―――を見かけると、それがどんな状況であれ切ない気分にさせられる。それが今にも消えてしまいそうなら、尚更だ。 短い感傷に私は浸る。 太古の昔から血に刻みつけられているように、まるでDNAで感知しているかのように、無性に愛惜を感じるのだ。ふわふわと空になびいて、自らの手を離れ、すぐに壊れてしまう存在に、そこには存在しなかったのでは無いかと思うような軽さに憂いを感じる。 それを、何も無い所を凝視する猫のように第六感でも働かせているのか、私の心象に気付いたメロが止める間も無く駆け出した。 身軽な彼はやはり猫のような機敏さで枝に体を預ける。 私の叫びのような制止の声なんか無視して、さっさと風船がひっかかっている木のてっぺんまでするすると登っていってしまった。 「上の枝は細いんですから、危ないですよ!」 「へーきだって」 下からメロのいる所までちゃんと届くように声を張るのに、高くて怖いだろう場所まで登っているメロは、太陽に溶けてしまいそうな金の髪を揺らし、私を見て… 微笑む。 「絶対に落ちないで下さい!」 「分かってる」 その笑顔に胸がもやもやとざわついた。 何が「分かってる」のか。落ちる時はどうしようも無く落ちてしまうのに。本当に落ちたらどうするつもりなのか。 私をこんなに心配させてー。 思って、眉を寄せてメロを再び見上げた。この距離ならば、もし間違ってメロが落下したとしても受け止めてやれるだろう。私だって運動神経は悪くないのだ。 ハラハラと柄にも無く心配して、メロが降りてくるのを待つ。 きっとメロは「危ないから今から降りて来なさい!」と命令したところで聞きっこないだろう。降りて来ては、くれない。 だったら、メロの気を逸らさないように、彼がもし落ちてきても大丈夫なように心の準備をして待っていることだ。 「もー、ちょっと」 流石に高くそびえ立っている木の頂は慎重に体重を移動させて、メロが風船に手を伸ばす。 「よし…手がとど…!?」 何て気紛れな風だろう。その風船が私の手に…私達に、捕まるのを阻止するかのように、一陣の突風が走り去っていく。 「メロ!」 木がしなって、私はどうかメロが落っことされないようにと、声をあげた。 風船なんてどうても良い。今はメロが態勢を崩さずに、しっかりと枝へとしがみつき、そして掴まっている木の枝が折れないようにと祈る、悲鳴のような、声。 その声がメロに伝わったかどうか。それは問題ではなかった。 「!!!!!!!」 メロはメロの指先を拒否するようにふわりと空に浮かんだそれを掴むために、 飛んだのだ。 驚愕に目を見開いて、私の喉はそして凍った。 スローモーションのようにメロが風船をキャッチするのが見えた。 後は自然の法則に従って自由落下が待っている。 私は呼吸も止まったような体を無理やり大地から切り離して、メロが落ちてくるであろう木の枝の下へ一歩・二歩と足を動かした。 もしかしたら、途中にある枝のせいで、落下地点が変わってしまうかもしれない。 上手に受け止められるだろうかー。 押し潰すように胸を圧迫される。 ザザザザ―――、とメロが木の枝やら葉にぶつかってゆく音が聞こえた。 「っ!!!」 木が大きくしなって、沢山の枝を覆う木の葉に視界を遮られる。 どこだ!と私は目を凝らし、全神経を研ぎ澄ませたけれど、一瞬のことで把握が出来ない。 もう、ムリだろうか。メロが地面に叩きつけられる姿が頭の中で鮮明に予想される。 こんな予想なんてしたくないのに、私の頭は当たり前のようにそれを突き付けてきた。 吐き気がする。 目を見開いたまま、私の目は何も映さない。 全てが真っ白になった視界に突然それは現れた。 「はは、ごめん。落ちちゃった」 「Σ!?」 顔に擦り傷、乱れた金糸に木の葉を大量につけ、彼は私の目線よりも少し高い位置にいた。 「お…」 「うん?ほら、風船は無事だ」 すっとメロは誇らしげに笑い、太い幹のような枝に掴まったままで、ずいっと私の顔面に突き出した。 「流石に枝にぶつかって割れるかと思ったけど、俺って強運!ほら、Lにあげる」 ぱくぱくと声が出ない私に向かって、メロはにこにこと笑ってそれを私が受け取るのだと信じて疑わずに、差し出している。 私が、彼の差し出したチョコレートを食べるのだと疑いもせず思っていたのと同様に、信じきって、差し出して、いる。 胸のつっかえを無理やり押しやって、私は声を押し出した。 「何がっ!『落ちちゃった』ですか!!!落ちないって約束したでしょう!?心臓が潰れるかと思いましたよっ!私の制止の声もきかず、あんな所まで登って行ってー!何が『風船は無事』ですか!メロが擦り傷だらけでー。もしかしたら大怪我だったかもしれないのですよ!?」 柄にも無く感情が昂ぶって、あの頃はまだ若かった所為もあるだろう、声を荒げてメロをなじる。 メロは困った顔をして、ぶらんと枝にぶら下がったまま「ごめん」と謝った。 それで私は、未だに受け取るのだと信じて疑わない彼の手をとらず、彼の体を抱きしめる。 「わっ!」 「バカですね。たかが風船のためにこんなに擦り傷を作って―――」 抱きしめるというか、肩に担ぎあげると言った表現の方が正確か。とにかくメロを腕の中に収めた私は安堵の息を漏らす。 良かった―――。彼はどこにも行きやしない。 「心配、したんですよ」 私が素直な気持ちをメロに伝えると、今度はもっと困った声で「ごめん」とメロが呟いた。 だらりと背中に担がれたままの態勢から上半身を起こそうとしているのを察して、私はメロを抱え直す。 まだまだメロは小さくて、重たいとはいっても、抱えられないほどではない。 私の腕に座るようにしたメロはちょっとばかり哀しそうな。でもそれ以上に複雑な、思わず優しくしたくなるような顔で、風船を持ったまま私の肩に手を置いた。 「ごめん。オレ、どうしてもこれ取りたくて、ムチャした。Lがこんなに心配してくれて、オレ、あのさ。アリガト――――」 たどたどしく視線を彷徨(サマヨ)わせながら言葉を紡ぐメロに、視線を合わせる。 まさか『有難う』といわれるとは思わずびっくりした私に、更に彼はびっくりする出来事をやらかした。 頬に手が添えられる。 柔らかく唇が触れた。 「!」 ふわりと触れて、ゆっくりと離れて行った。 メロが私の顔覗き込んで微笑んで、世界に誇るだろう頭脳を持ったはずの私は、やっとそこでキスをされたのだと認識した。 「Σぎゃあ!」 ドスン!と大きな音を立てて、メロが落下する。 「いってーっ」 思わず、両手を全開に広げてしまって、当然メロはそのままの姿勢で地面に衝突した。 「いきなり手ぇ離すなよ〜〜〜」 メロはやはりしっかりと手に風船を掴んだまま、涙目で尻を擦っている。 「いきなり、はメロの方じゃないですか!何をするんですっ」 「何って。キス」 「…だから、何でいきなりキスをしたのかと聞いているんです!」 「アタタタ…そんなに怒るなよ。ちょっとした茶目っ気…じゃないけど。嬉しかったからさ。Lがオレを見てくれてんのが」 尻を擦(サス)りながらメロが立ち上がる。 「オレもそんなにでっかい怪我しなくて済んだし。Lの風船は護れたし。ホラ、やるよ。いちおう所得物だけど警察には届けなくていいだろ?持って帰ろう」 そう言ってメロは私の手に赤い風船の紐を握らせる。 「オレはLが悲しい顔してるのは嫌なんだ。だから絶対落っこちたりしないよ。…もう、そんな顔させない。でも、すっげー心配してくれるのが嬉しかったからさ。顔も近かったし。オレ、Lが好きだから」 顔も近かったから、だなんてどんな理由だ、と私は思って、でも言えなかった。 何故ならば、彼が上目遣いに悪戯な目をして見上げ、私が風船を手放したりしないように小さな手で包みこんだまま、ぐいっと引っ張っり、 再び私にキスをしたからだ。 next ………………………… 2006.01.20up [0]back [3]next |