ノートが燃え、散る火花はまるで人の命のよう。


【残酷ピエロを幾度も殺し】


「月くん……」

『行くぞ』
 ガクリと膝をついたLを確認して、魅上が歩き出す。
 その背中が無防備に晒されているのに、Lはすっとポケットから一本のペンを引き出した。
 手の平には、ノートの切れ端。
 胸の奥が吐き気を覚えて競り上がった。
 生暖かい血の匂いが、脳の奥で再現する。
 見えない目で慎重に名前を書いた手が、今は震えた。
 どうにか、まだ。目は見える。
(月くん…)
(月くん…)
 あれだけ、ノートにだけは手をつけまいと思っていたのに、とLは最後の一文字を書き込みながら自嘲気味に笑った。
(あの時、貴方もこんな気持ちだったのでしょうか?)
 信念を捻じ曲げても、感情が先に立って。

 幸せにしたい。
 幸せでありたい。

 その幸せが誰かを犠牲にして、手に入るものだとしても、弱い私達はそれに手を伸ばさずにはいられないのだ。
「おい!?」
 レムの声がして、顔を上げるとノートが炎上しているのが見えた。
「…え?」
「残念だったね」
 ぐらりと傾いだ魅上をレムが抱きとめるのに、月の冷たい声が被った。
「…まさか…」
「リューク」
「はいよ」
 バサリと、まさに死神に相応しい黒が舞い降りて、Lとレムは愕然としてその姿を見つめた。
「…そういうことですか…」
「ああ、そういうことだ」
 雲隠れた薄い陽光さえ、ノートの炎上と同時にまるで息を合わせたかのように途切れ、静かに雨粒を落とした。
 軽く唇を引き結んで目を伏せた月が、まるでこの世の全てを洗い流そうとでもするような大雨の中、足音も立てずに真っ直ぐにLの元へと歩み寄ってくる。
「……」
 静かな目だと思った。何もかもを諦めたような、それでいて、氷のように鋭く透き通った目だと、Lは思った。
 月の背後には、白と黒の異形の死神。
「L…。僕はお前を殺したいと思うくらい、憎くてたまらない」
「そう、でしょうね…」
 目の前の、秀麗な顔に向けて、Lは小さく微笑んだ。
「監禁とノートは死神が?記憶を取り戻されたんですね」
「ああ」
「そして、また…。……」
「…謝罪の言葉は無いんだな」
「謝る理由がありません」
 声を掻き消すくらいの雨粒が、地面を叩いて跳ね返る。
「…ッ!」
 そこに、Lは尻餅をついて、綺麗な顔をこれでもかという程に歪ませている月を見上げた。
 口の中から鉄の味がする。
「お前は何度、僕を裏切れば気が済むんだっ!!」
 殴った側の方が、あからさまに苦痛を訴え声を荒げて、Lはそれに顔が歪めながら叫び返した。
「何度でもっ。貴方こそ、幾度私を試せば気が済むのです…!!」
「く!」
 繰り出した蹴りに、月がたたらを踏む。
「僕を裏切った、罰だ…!僕を一人残して逝こうとした罰だよ!!お前に記憶を取り戻して、それからお前の名前を書かれたノートを見た、僕の気持ちが分かるのか!?それで守ってきたもの全て放りだして、僕の命を優先して―、何度お前は僕の心を抉れば気が済むんだ?!何度僕を一人にすれば気が済む…っ―」
 強かった語調が次第に細く弱く掠れて消えた。顎から水滴が滴る中、水を吸って重くなった着衣の下から、ノートを引き摺りだし、月がばさりと投げ捨てた。
 雨に濡れたアスファルトにノートが開いたまま落ちて、Lはそこにある名前に瞳を揺らす。
「  何 度 で も  」
 震えながらも柔らかく告げた答えに、Lの目の前の人物は崩れ落ちて、縋るように腕を伸ばしてきた。
「お前はバカだ…」
「はい」
「世界一の頭脳だなんて、嘘だ。お前はこの世界で一番の愚か者だ」
「そうかもしれません」
「なぜ魅上の名前をノートに書かなかった。何故、こんな遣り方をした…」
 首筋に、冷たい雨粒とは別に、途方もなく熱い雫が滴り落ち、冷えた体を熱くさせる。
 不鮮明な空気も、コンクリートの大地も、冷たい雨粒も、全てが月と出会う前のLに戻そうとするのに、Lを抱きしめる月の体温がそれを阻む。
「月くんを否定した私がそれをするわけにはいかなかったんです。けれど、私が月くんからノートを奪わなければ、こんな事にはならなかった。そのけじめをつけようと思ったら、こうなった。結局私は、魅上の名前をノートに書いてしまいましたが…。……月くんの背負う十字架が、…欲しかったんです」
 観念したように呟くのに、月が「やっぱり大馬鹿だ」と呟き返した。
「やり直す機会を与えてくれた―、認めたくはないが、それには少しは感謝する」
 だが、と月の言葉が更に続く。
「『幸せ』なんかには、程遠い。お前が言った言葉を僕はそのままそっくりお前に返す」
 熱い吐息が耳にかかる。
「『その人を犠牲にしてある世界なんて、辛すぎる』
『もし、世界中の人々がそれで幸せだとしても、そう言っても』
 僕はちっとも幸せじゃない。
 お前が言った言葉だ、L。
 お前が言った言葉じゃないか…。
 僕はその意味をようやく今、思い知った」
「分かってます。…それでも、私は幸せでした…。
 あなたが無垢に笑っていられる、正当な時間を、奪ってでも作ることが出来て、とても幸せでした。
 辛いことなど何ひとつとしてない。
 痛いことなど…、苦しいことなど…、悲しいことなど…、それさえも…」


 世界は作り上げた端から、ぽろぽろと砂のように崩れ落ちていって、
 何度も、何度も、その綻びを結びなおす。
 何度も、何度も、綻びを直そうとした手は傷だらけ。
 最初から、易しい道ではないことは解り切っていて…
 でも、それでもずっと、頑張れた。

 不幸ではない。
 悲しくなんてない。
 辛くもない。

 貴方の幸せを想えば、私はずっと。


 犯罪の無い、優しい者達だけの世界。
 貴方の望んだユートピア、築くことは出来ないと分かりきっている。
 けれど、近づく事は出来るはずで。

 心の奥深くに仕舞っていた想いが湧き上がり呟くLに、月の苦笑した声が耳に響く。

「嘘吐き。辛くないはずがないだろ、悲しくないわけがない、苦しくないわけが…」


ふと、体温が離れた。



「L、一緒にやろう。

  やれることを一緒にやろう。

      二人で、やろう?」


 私はそれで、涙を流す。
 私が選べなかった、
 貴方が選べなかった。

 あの時の貴方の涙の分まで、私は泣く。

 二人して、迷って、間違って、寿命まで縮めて。

 それでも、これまでの人生と、
 二人して残り23日間の余生に感謝しながらキスをした。

 黒と白の死神が立会い人のように見守る中で、呼吸を揃えた。


 もう、ピエロを殺す必要なない。

 ノートが雨に濡れ、そこに書き込まれた文字が滲む。

「お前達は一体…」
 無言で成り行きを見守っていた死神レムが呟くのに、Lと月と、それからリュークは笑った。
 Lと月は額をあわせて目を閉じる。
 心からその言葉を口にした。


「「所有権を放棄します」」



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