髪をやさしく梳かれる。
懐かしくて懐かしくて堪らなかった。


【ひぐらしの鳴く前に】


優しい手の感触に酩酊した意識が少しだけ浮上した。
(気持ちいいです…)
冷えきった体に、その手の温もりが心地よい。
(…あったかい…)
この体温が誰のものか、えるは知っている。
証拠に、月の柔らかく語りかける声が聞こえた。
「…えるはさ、今更だって思うかもしれないけど…本当はさ、初めてあった時から君に恋してた。好きで好きで堪らなかったよ」
髪を梳き、頬を撫でられる。
この手も、声も、月のものだが、聞かされる内容は現実のものとは思えなくて、夢だと思った。
閉じた目は開かないし、指先さえ動かせないならば夢に決まっている。
(なんて都合のいい夢でしょうか…)
「どんどん、気持ちが大きくなって、いつかお前を閉じ込めてしまう気がした。誰の目にも触れないように…」
(…それで、良かったのに。月くんになら…)
夢だと思ったら、途端に理性が利かなくなって、内心焦る。
(…例え、誰にも会えないように閉じ込められたとしても…。酷い言葉を投げつけられても…。私の気持ちなんて考えず、無理やりされたとしても…。
…月くんになら…)
これが本音か、と泣きたくて堪らなくなった。
これが本音なら、魅上の言った事は正しい。
(…そうです…。月くんに、本気で迫られたら、私はきっと簡単に流されてしまう…)
連れ去ってくれるなら、喜んで。
(…ぁあ…私は酷い人間です…。魅上を詰っておいて…私は…!)
どうかしてる。
月が恋しくて、恋しくて、愛しくて。
(私の方が…!)
酷い裏切りだと思った。魅上に対する、深く酷い裏切りだ。
魅上の行為を月に置き換えて、そして想像すれば、きっとえるはあの身の切るような愛おしさそのままに、その腕で抱きしめたことだろう。
前科と呼ばれたことすら、赦せないと感じたりはしないだろう。
(そして、私はー…)
夢ならば、語りかける月を抱きしめさせて欲しいと思った。
魅上の事は愛しているという思いに変わりはない。
望まれるのなら、傍にいてあげたいと思う。
(…でも…)
月に恋してる。
この内にそんな激情があるのかと、疑いたくなるような思いが、ある。
(月くん!月くん!らいとくん…!)
「…僕は今でも、怖いんだ。自分が自分でなくなる、この思いが。お前がまた、僕を好きになってくれるように、そんな思いも糧にして優しくしようと誓ったけど…。今、またその自信がない…。こんなお前の姿を見て…我慢出来る筈がない…!」
高ぶる声に呼応するように、えるの胸が熱くなる。
割れた傷口から、更に血が流れだしている気がした。
「今すぐ力ずくでも、アイツから引き離したい…!…何で泣くの、える」
吼えるような言葉が急速に萎んで、労るように優しく、触れられた。
それで一層涙が止まらない。
「…もう遅い…?魅上の事がそんなに好き?…それとも…」
額に柔らかい熱が触れる。
「…僕は、える。お前が好きだ…」
ずっと望んでいた告白に、涙が川のように流れだす。
「…える」
冷えた唇に、恋しい人の熱が灯る。
その暖かさに溶かされたように、指先がぴくりと動いた。
全身に、輸血されたように、血が巡り出す。
(はやく…はやく)
これこそが、罪でも、構わないと思った。
触れられている最中で無いと動きだせないから、手に欲しいものを掴めないから、全身を叱咤する。
夢でも構わないから、この手に掴みたかった。
(…動く…!)
「…何をしている」
地を這うような声がして、えるはタイミングを失ってしまった。
ゆっくりと月が離れて行く。
「見て分からないですか?眠ってるえるに口付けていたんですよ」
不敵な月の柔らかい語調に隠された、棘が投げつけられて、えるは少し不審に思った。
「のうのうと…恥を知れ…」
「恥を知るのは会長。アナタの方でしょう?自分の信念を曲げて、授業中何をしていたのですか?…えるに乱暴を働いたな…!」
(…おかしい)
牙をむいた月と魅上の会話に、だんだんと夢とは思えなくなって来た。
「合意の上だ」
魅上の足音が近付いてくる。
(…これは…夢、では無い?)
「合意だと?!お前こそよくもぬけぬけと…!ならば何故手首にこんな痕が付く!えるがあんな場所で倒れたりするんだ…!」
「ああ…確かに強くし過ぎたからな。プロポーズを『嬉しい』と言われて余裕がなくなった。それだけだ」
「…」
「…こいつは私の妻になる女だ。手を触れたり、余計な思いを向けないでくれ。昔とは違うんだ。こいつは私を愛していると言った。何度も抱かれた。お前の入る余地は無い」
「…魅上…!」
(これが現実なら、早く起きなくては…!止められるのは私しかいない…!)
焦って、余計に体がいう事を利かなくなって、更に焦る。
「…夜神、お前が了承する気が無いというなら、私にも考えがある。お前の過去を学院に報告するだけだ」
(早く!)
「…ふ…はははは!」
(早く!)
「何がおかしい」
「分かって無いね。僕はもうそんな事どうでもいいんだよ。えるがいないなら、そんな事は一切意味が無い」
「……」
「色恋沙汰は人間を堕落させるって言ってたけど、アンタもその例に漏れなかった訳だ。私利私欲で人を脅すなんてね、相当頭がイカレてる」
「侮辱する気か?」
(お願い…!)
「侮辱してるんだよ。頭悪いな。僕にそれを突き付けるって事はどういう事か分かってないんだ。どうせ退学なら僕は好きな事をするよー…」
(月くん!)
「…夜神」
剣呑な月の声に、驚いたような魅上の声が重なった。
おそらく、魅上を殴るつもりだろう。
(…月くん!)
「止めて下さいっ!」
金縛りを無理やり解いて、魅上を庇う。
「止めて下さい…。そんな事をしても、私の気持ちは変わりません…」
傷ついたような月の表情が、胸に刺さる。
「出ていって下さい。助けていただいた事は有り難いと思いますが、もう二度と私に話かけないで下さい…。私は役員を降ります」
「…える」
「…さあ、早く!」
ありったけの声で促すと、月が「分かったよ」と胸が痛くなるような笑みを向けて頷いた。
目の前からその姿が消え、やがては気配も消えて行った。
「…お前の結論がそれか」
魅上を庇う形で向けた背中に静かな声が降りかかる。
「…そんなに夜神が好きなのか」
イエス、とも、ノーともいえずに、ただ嗚咽がえるの喉をついた。



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■あとがき
次回から限定公開です。
21話は21日AM0時公開、公開終了は24日のPM11:59分、
最終話は25日AM0時公開、公開終了は28日のPM11:59分の予定です。
宜しくお願いいたします!

dataup2007.03.18


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