■【この闇に沈む】■ 05

『お前に永遠の安息をやろう』
そう言われたけれど、心はちっとも動かなかった。
欲しいものはそれでは無い。



「望む事はひとつだけ」


***


「お腹が空きました、お茶にしましょう」とダイニングへと誘った時から嫌な予感がするのか、先程から月の眉間には皺が寄せられている。
シンと静まり返った真夜中のダイニング。
キッチンで用意したティーセットを運んで席についた。
それからいつものように白磁のシュガーポットから掬った砂糖を大量にティーカップに投入して、それをおざなりに撹拌してから口許に運ぶ。喉に通すと体がふわりと温まり、同時にこびりつくような甘さを感じた。
ふ、と溜息のような吐息が零れた。少し、緊張していたのかもしれなかった。
両手の指先で挟んだティーカップから熱が伝わる。だから、静寂の中で冷えた指先が解けるのを待つ。
耳をそばだてなくとも相手の吐息の音さえ聞こえそうな静けさを前にして、Lは目の前の紅茶に視線を落とした。ゆらめく水紋に『L』と呼ばれた顔が、変わらずに映っていた。
それに目を合わせると、新しい生を受けてから埋もれていた記憶と今の風景が重なって見えた。
大きな掃き出し窓からは少しだけ欠けた月が顔を覗いていて、月光で編まれた光の糸が窓辺から静かに注ぎ込まれている。
それから、燭台に灯された明かりと途中で混じりあう風景。
木目が柔らかい印象を与えるダイニングテーブルは過去の記憶とは違うけれど。丸みを帯びた陶磁器製のティーカップが光を優しく弾いているのは同じだった。
真夜中のお茶会、と、かつての彼はそう呼んだ。
『真夜中のお茶会なんて呼べば聞こえは良いのかもしれないけど、状況は悲惨だよね。お前ほどじゃないけど、お互い目の下に隈を作っての労働を労わる為の休憩がこれだし?まあ、ロケーションまでは及第点としても、食べ物が『何コレ』の状態だなんてふざけてるとは思わないか、竜崎』
疲れている癖に虚勢を張って元気なフリをして苦情を漏らす。能力という立場から比較して、自分に出来ないことがあるというのが嫌らしい彼のそういう態度にLは薄く笑みを浮かべながら『そうですか?』と返した。
『静寂の中で、体が温まる紅茶と、小腹を満たすスコーンにサンドウィッチ、それからクッキーとか最高じゃないですか』
『ああ。サンドイッチの中身がゲロ甘のフルーツサンドじゃなくて、クッキーの糖分も普通で、かつ目の前の相手が砂糖を投入しまくっていなければ、"最高"と言ってあげてもいいけどね』
彼は珍しく砂糖をいれた紅茶を啜ってから唇を歪めた。
『僕が食べる事が出来るのが味の無いスコーンだけって、どんな拷問だ?ジャムすら市販じゃないとかありえないだろ』
『市販のジャムって甘くないですよね』
『誤解を招くような事を言うな。あれが一般的な甘さだ』
むっと眉間に皺を寄せて睨みつけてくる彼にLはひょいと肩を竦めてみせた。
『でしたら、皆さんが食べてるカップなんたらを食べればいいじゃないですか』
『僕はそんな無粋に出来てない』
因みに、近代化されたビルの中に点々と娯楽施設のようなものがあるのは仕様だ。
理由は、神経をすり減らし極限に追い込まれることもある捜査の中で、時にはガス抜きが出来る環境を整える場所がありませんと…、とワタリが言ったからで、その理念はLと彼の自室にも及んでいたのだった。
そんなワケで、ベットルームの隣にはサンルームが設けられている。
そのサンルームでの休憩という状況に措いては、インスタント食品を摂るのは無粋だからしないと、形から入る自分を容認しているのは彼自身なのに嫌味をいうのだから子供だ。
と、いうか、彼がLに付き合って起きているのだって、彼が決めた事で、強制ではない。
そもそもこの間まで、規則正しい生活と自己管理が出来てこそ効率のいい捜査が出来るんだとの論を掲げて『きちんと寝ろ』『まともな食事を摂れ』とこちらにまでお節介をやいたのは彼である。その間彼は自分の生活スタイルを守り通してきたのだ。
睡眠時間に関しては、最近そのスタイルを変更しているようだったが、それでも最低限は寝ていたし、夜食なんかは『余分だ』と言って殆ど摂ってはいなかったのだ。
だから彼が今ぶつけている文句は理不尽な八つ当たりなのだが、論破するのも面倒臭い。負けず嫌いではあるが、利にならない時まで我を張るほど幼くは出来ていなかった。
『竜崎、今僕に対して「見当違いの八つ当たり」だとか思ってるだろ』
『…バレましたか』
『お前が反論しない時は大抵そんなだろ』
『そうですか?』
『絶対そうだ』
ふんっ、と鼻息荒く吐き出して不貞腐れている様を露わにするのはやはり疲れているからだろう。
Lが尖った神経を癒すのに糖分を必要とするように、彼は絡む事でそれを得ようとしているようだ。
三度肩を竦めて紅茶を口にするLに、彼は『大体お前は…』と愚痴を漏らす。
それを半分は受け流すことに決めて、Lはせっせと甘味を口に運んだ。こちらとて疲れていないわけではないのだ。
けれど半分だけは受け止めることにしたのは、体で発散されるよりかはマシだからだ。
セックスは嫌いではないが、ぐちゃぐちゃのどろどろになるのは、正直疲れに拍車をかける。
『おい、聞いてるのか』
『聞いてますよ』
そんなかつてのロケーションはそこまで再生されると、泡のように弾けて消えた。
現在の彼は、月は、紅茶に手をつける事もなく、腕を組んで座っているだけだ。
月もあの時のことを思いだしているのだろうか。それともLを同族に貶める術を、はたまた殺す策を練っているのだろうか。
出来れば後者であって欲しいと、思う。
後者ならば、Lも躊躇なく手を下す事が出来るだろうから。
だって、この手で彼の生を終わりにするのでなければ、転生した意味がない。
姿形は同じだ。
そして記憶も。
私は『私』以外の何者でもなく、そして今、彼の目の前にいるのは、その全てが、終止符を打つことができなかったという後悔の上に成り立っているのだから…。
Lは己の鼓動が止まった後、気付けば何だか白くて、白くて、白い以外に何も無い空間にいた。
果たして、染みひとつ無い空間は居心地が悪く、右も左も上も下も無い場所でどうしたものかと思案していると、突然声が降って来てこう言ったのだった。
『お前に永遠の安息をやろう』と。
Lは一拍ほど思案して『何故?』と訪ねた。
声は答えた。
『神と呼ばれる私には、特別な死に方をしたお前に、望むことを叶えてやる義務があるからだ』
どうやら『神様』というのは、私が教会で習ったような存在とは違うようで、まぁ、死神(レム)がああならこれもありだろうと、そう納得した私は貰えるものは貰っておこうと、どこから響いてくるとも分からない声に向けて口を開いたのだった。
『何かを与えられるというのなら、欲しいのはもっと違うことなのですが』
『永遠の安息では無いのか?』
神様でも心の中までは見透かすことは出来ないらしい。
まあ、当たり前の事なのかもしれない。
突き詰めればシンプルに出来ているはずの心が、自分自身でさえ捉えどころがないと思うほど複雑怪奇にねじ曲がっているのだから。
それでもLは未来に続く選択肢をひとつだけ選び取ったのだ。

『望む事はひとつだけ
 彼との再戦を』

迷いなく言いきった私の望みに対して、逡巡のあと『条件次第では可能だが、それで良いのなら叶えてやろう』との返事があった。
神様にも過去を変える事は出来ない。
来世ならば、という声に私はお互いの記憶を保ったままであるならば、それで充分だと頷いた。
Lの出せる結論は一つだけ。
やりたい事がある。
やりのこした事があるのだ。
やらなければならない事が。
Lだけが出来る事が。
『彼』が息を引き取った際に、死神大王という親に新しく命を与えらるのだと知った、Lが選ぶ明日はたった一つ。
チャンスという未来。
彼と対等にやりあえるだけの知識と力を『神』という存在に与えられて、再び輪廻にまわったのだった。

「月くん」
「なに」
ソーサー戻したティーカップがカチン、と軽く音を立てた。
宵の深い静かな空間を崩すその音を切っ掛けにして口を開くと、いつ来るかと身構えていた月がゆっくりと視線だけあげた。
「食べないんですか?」
「………、いらないよ」
こんなの、と声無き声が聞こえて私は内心で口元を緩めた。
今の月は、記憶を無くして手錠で繋がれていた時の彼と、大学で会っていた時の冷徹な彼の二つの顔がちらちらと垣間見えて面白い。
「吸血鬼とは人間の血液以外からエネルギーを摂取することが出来ないんですか?」
「出来ないことは無いだろうけどね。圧倒的に足りないな。一日中食べ続けても一日分のエネルギーなんて作れやしない」
「…成程。何か残念ですね」
「…何が?」
「味わうという楽しみが無いとは些か人生に面白みが足りないと思うんですよ」
「…お前が味について語るなよ。人類に対する冒涜だぞ、それは」
非常に嫌そうな顔をされて今度は内心だけでなく、口元に笑みを浮かべた。
「言いますね」
「糖分だけ摂ってればいい人間には妥当の評価だろ。見てだけで胸焼けがしそうだよ」
「おや、前世は人間でしたか」
「…そうだよ。それが何だ?」
今まで淡々と答えていた彼の目の奥が小さく燃えたのが分かった。
全面的に協力してやる、といいつつ引っ掛けられるのはプライドに関わる問題らしい。
「もっと率直に聞いたらどうだ?お前は婉曲な言い回ししか出来ないのか」
変わらないな、と思いながら皮肉を聞く。
「何ですかそれ、まるで私が捻くれてるみたいに聞こえるんですが」
「捻くれてないとでも言うつもりか?」
シニカルに口許を歪める月には、そらっとぼけて返す。
「そのつもりですが。私こうみえても結構素直で可愛らしい性格なんですよ」
「今すぐ殴りつけてもいいか?」
「傷つけないと約束したじゃないですか、それは反則です」
本当に忌々しそうにチッと舌打ちする彼を見て「まあまあ」と宥めると見せかけて、油を注ぐ。
「会ったばかりだからそう思うんですよ。長く付き合えばきっとわかります」
「知ってるから言ってるんだよ!」
苛立ちを隠そうとしない彼がギロリとこちらを睨む。そういう素直な態度は面影を思い出して可愛らしいとか思ってしまう。
もっとからかって遊んでやりたい気はするが、それはそれ。月にもっと『私』を刻み込まなければならない。
さっさと『私』の穴埋めにとりかかる。
「前から思ってたんですけど、私を知ってるんですか」
「…嫌ってほどね」
「前世で?」
「ああ」
「具体的にどのような"関係"だったんですか?」
「…っ…、だから…敵、だって言わなかったか?」
「聞きましたよ。なので、具体的に、と言ったんですが。…おや、月くん、顔が赤いですが大丈夫ですか」
伸ばした手は呆気なく叩き落とされたので、少し困ったような顔を作ってみせた。
「何するんですか」
「…協力するとは言ったが、必要のない事まで話すつもりはないよ。僕と友達になりたいなんて戯言聞かないからな」
虚を突かれて赤面した顔がもう皮肉の下に隠れてしまった。
永い時間の間に埋もれてしまった甘やかな記憶を、もう少しくらい思いだしていてくれてもいいのではないか、などと思いながら「ダメですか?」と問うと、彼は泣きそうな、或いは怒ったような顔で「嘘吐きめ」と罵った。


貴方に言われたくないんですが。


小窓から、一陣の風が吹き込んで、燭台の炎を揺らすと、灯りが夜陰に紛れて消えた。
けれどもLは滲む愛惜や悔恨を表情に載せず、彼の顔を見つめるに留めた。
吸血鬼は夜目が効くので、表情を読ませることなんて出来る筈もない。
だって死と生のゲームの幕は既に上がっているのだ。

私が勝つか、月くんが勝つか。
私が死ぬか、月くんが死ぬか。
引き分けに終わらせる事も出来るけど。
今度こそ私の手で終わりにしますと誓ったLに、選べる選択肢はひとつで…、
この胸の裡から噴き出す激情はきっと彼と同じ性質のものだったから、だからこそ引く気にはならない。
全ては単なる私情。
けれどもどうしても掴みとりたい未来。


引き返すことが出来ずに私の息の音を止めた彼が、自分勝手に傷ついた顔をしていたとしても、
この闇に貴方を沈めるつもりしかないのです。


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