■【らぶラブらぶ】■ 15

… side アーサー …

出かける間際になってもギルベルトが起きてこなかったので、アーサー達はメモに走り書きを残してから家を出て駅に向かった。
余裕をもって駅に到着し、差し障りのない会話をしていればホームにベルの音が鳴る。
アーサーはギルベルトに引きずられるようにして乗った時とは大違いの安全さで電車に乗り込んで席をみつけて腰をかけ、『そういえば』と先週の事を思い出して口元を緩めた。
水族館に出かけたのは先週のことだったのに、なんだか随分と昔のような事のようだ。
(ハプニングはあったけど、楽しかったよな)
誘ったらまた一緒に出掛けてくれるだろうか。植物園も行きたいし、動物園にだって行ってみたい。映画だっていいけれど、ホラーは駄目だよなと小さく笑う。
いい歳して、弟よりも子供っぽい居候先の兄の姿を頭に思い描けば、なんだか少しくすぐったい気持ちになる。出来の悪い弟に対するような、そんな気持ちだ。アルフレッドに対する気持ちに少しばかり似ているかもしれない。
(…まあ、ルートヴィッヒはとんでもない勘違いをしているみたいだが…)
だが、アーサーは本人にちょっとアレな方法で確かめた後である。ルートヴィッヒの言う通りだとしたら、あれで襲われないとは思えない。だから『恋人』云々は間違いであるけれども、でもきっと…ちょっとは仲のいい友達の筈だ。先週はまた来るかと言ってくれたし、ちょっと声をかけるくらいしてみてもいいだろう。
(そういや、こいつも付き合ってくれるっつってたけど…)
うん、と小さく頷いて目線を上げて視界に入ったルートヴィッヒをなんとなく見つめて、先ほど言われた言葉を反芻する。
『何かあったら誘ってくれ。偶には一緒に出かけるのもいいではないか』
誘って本当に来て貰えるものなのだろうか。
アーサーはパチパチと瞬きをしながらぼんやりと外を眺めているルートビッヒを注視した。
ギルベルトは植物園とか美術館は苦手そうだから、出来ればそっち方面に行く時に付き合って貰えたら嬉しい…と思うのだが、躊躇いは残る。
だって今日声が掛かったのだって勉強がしたいからであってアーサーとどこかに行きたかったわけでも、ギルベルトのように暇を持て余していたワケでもない。
ルートヴィッヒはギルベルトと違ってアーサーの娯楽に付き合うほど暇でもないだろう。
(…ま、仕方ねぇよな…)
社交辞令を真に受けられるほど可愛い性格をしていない。小さくため息をついて視線を逸らし椅子に深く腰をかけて車内に視線を巡らせる。
休日の車内は学生達でそこそこの賑わいを見せている。
(俺たちも友達のように見えたりしてな…)
休日に私服で一緒に出掛けるなんて、まるで友達みたいではないか。
そう思うと心がムズムズして面映ゆい。
社交辞令だとは思っていても、なんだか欲が出てきてしまう。
(……まあ、そうだな…。…チャンスがあれば…)
絵画なんかは見ておいて損は無いだろう。社会勉強の一環としてならば、誘っても迷惑じゃないかもしれない。
アーサーは物静かなルートヴィッヒに視線を遣り、思い切って口を開いた。
「なあ、お前さ、絵画とか…興味あるか?」
「絵画?…特に興味があるという程ではないが、時々フェリシアーノに付き合って美術館に行くことはあるな」
「…ああ」
なんだ。もう行っているならアーサーが誘う理由もない。フェリシアーノは美術が得意だから、アーサーよりも有益な情報を得られるだろう。
「それがどうかしたか?」
「いや、やっぱり社長クラスになると美術方面の情報も押さえておいた方がいいからな。絵画とか、クラッシックとか、感性は磨いておいた方がいいぞ」
「なるほど」
「フェリシアーノならガイドとして充分だろ」
「そうだな。あいつは特に詳しい。菊も造詣が深い方だが、細かい所までよく知っているな。聞いていて為になる」
随分と褒めるのでそんなになのか、とアーサーは関心する。以前フェリシアーノの作品を見たことがある。確かに素晴らしい出来栄えだった。人間一芸には秀でているものである。
「あとはな、クラッシックなんかはまだお前には敷居が高いかもしれないが、行けたら行っとけ」
「ローデリヒのピアノはよく聞くが、コンサートか」
何気にそっちの方は充実しているらしい。
(俺があんまり口出す事はねーようだな…)
結構要所はおさえているようだ。
(社交ダンスはウチの学園にいりゃ覚えるし…、勉強は早いに越したことはねぇけど、大学でも学べるからな…。余計な事だったかもしれねえな…)
アーサーの実家級ならともかく、ルートヴィッヒの会社なら今からガチガチに詰め込まなくても平気なのかもしれない。それよりも、ゆっくりしたり、友達と思い出を作ったりするほうが時間の使い方としては有効のような気もする。時間は無限ではないし、その時期にしか出来ない事もある。特に友達作りなんてものがそうだ。人脈は重要だ。あれで案外友人関係というのはバカに出来ない。
「そうしてみよう」と真面目に頷くルートヴィッヒにアーサーは苦笑する。
「まあ、あんまり根を詰めるなよ。友達と思い出を作ることも、体を休めることも必要なんだからな」
分かっている、と素直に返事をされて、アーサーは苦笑を深くする。
(こいつのいい所は真面目で実直な所だよな)
この素直さがあれば、きっと周りも助けてくれるだろう。アーサーとは違って。
(俺は策を巡らせて引っ掛けたりする事しか出来ないからな…)
人と信頼関係を結ぶのが苦手である。秘密は誰にも打ち明けないほうがいいと思っているし、借りはなるべく持ちたくない。損得の計算ばかりが先にたって、どうしても皆のような振る舞いをすることが出来ない。それは大きな武器であるけれど、同時に弱点だということも把握している。
(まあ、仕方ねぇよな…)
昨日、ギルベルトはアーサーが社長に向いているなどと言っていて、それはアーサーも認めたが、もしかしたら本当はあまり向いていないのではないかと時々思うこともある。社員に愛情は持っているが、それを示すのが下手糞なアーサーではバイルシュミット家のような家族企業の延長線のような企業のトップはきっと務まらないだろう。
(俺は俺の財閥のトップであるように育てられてるからな…)
物事にはTPOというものがあるものだ。アーサーはバイルシュミット家の会社の社長を勤められるタイプの人間ではない。
(余計な心配してなきゃいいけどな)
アーサーの存在の所為で自分の進路を変えることは無い。絶対にあり得ないことだが、仮に彼らの父親がアーサーを後継者に指名したとしても、アーサーは降りるだろう。自分の利益になるものならば、奪ってでも欲しいが、居心地のいい場所を提供してくれた家族の輪を掻き乱したいとは流石に思えない。
アーサーは再び静まり返った車内で緩く息を吐く。ルートヴィッヒよりもギルベルトの方が勘に長けていると思っていい。だからアーサーがこの家に来た理由に違和感を感じて、思いついたのは会社の乗っ取りの可能性を思いついたのかもしれない。それで昨日はきっとかまをかけたのだろう。『俺が社長になったら嬉しいか?』だなんて、最初は何の話かと思ったけれど、あれはきっとアーサーの反応を窺っていたのだ。アーサーが社長の地位を狙っていたとすれば、彼らは邪魔者に相違ない。しらじらしい顔で『嬉しいよ』などと言わないか窺っていた。多分そういう事だろう。
(昨日ので分かってくれてりゃいいけど…)
弁明した言葉は嘘ではない。アーサーにその気なんて一切ない。けれど、失礼な奴だと非難する気にはなれなかった。自分自身の性格は把握している。これが嫌いな奴の所だったら、乗っ取りくらいは普通に考える。ギルベルトが部外者を警戒する事に越したことはないのだ。
(やっぱりアイツの方が社長に向いてる…かな?)
魑魅魍魎が蔓延る世界だ。どうにかして足元を掬ってのしあがろうと考える奴らもいる。ルートヴィッヒではまっすぐ過ぎて少し心配だ。
(その辺はバックアップしてやれると思うけど…)
一日中張り付いているわけにはいかない。ルートヴィッヒでも悪くはないが、最終的な決定権を持つ社長よりもきっと脇にいた方がその能力を発揮できるだろう。
(ギルベルトはああいう奴だけど、部下に気を使わせない程度にケツを持つのも得意そうだしな…)
失敗は知らせた方が本人の為になるが、それも過ぎれば仇になる。自己責任はすべての基本だが、会社という組織に属している以上、決定的なミスにも責任を取ってくれる人間がいる事は重要だ。
(部下に責任押し付ける上司もいるけどな…)
車外に逃した視線をチラリと向ける。ルートヴィッヒは責任感の塊のような男だが、それだけに一番上というのは気を揉むだろう。考え過ぎて胃に穴をあけたりしそうだ。
威厳はルートヴィッヒの方がありそうだけど、なかなかどうして上手くいかないものだ。
(でも、あいつも真面目な顔をしている時は結構見れる面してっし…年を重ねて経験積んだらどうにかならねーかなーって思っちまうんだよな…)
昨夜の真剣な顔を思いだしてちょっとだけ頬を緩める。あの顔は悪くなかった。あんな顔が切り替えひとつで出来るようになれば、中々いい社長になれるんじゃないかと思うのだ。
(そもそも素材は悪く無いんだよな…)
勉強していないだけで、頭の回転は悪くない。勘もいい方だろうし、体力もありそうだ。神経も図太い方だろう。無いのは運くらいだろうか。
(運がねえってのはキツイけどなー…)
でも悪運は強そうだ。
アーサーは偲び笑って再び車外に視線を流した。
この兄弟がどんな選択をするのかはアーサーには関係の無いことだ。アーサーはただ、己に課した役割を果たすだけ。
それが例え気鬱だと思っていた家庭に縛られる人生でも、そう悪くないのかも、しれない。


人の多い街並みの中で、クラクションのなる音が耳に聞こえる。
「先にメシにするか」
「ふむ…。ならいい店がある」
雑踏を抜けて目的地につくとちょうど昼時だったので昼食に誘うと、小洒落たカフェに連れていかれて意外だなとルートヴィッヒを見遣る。
彼は「フェリシアーノのお薦めだ」と苦笑した。成程、それならさもありなんと納得して椅子に腰を据える。
落ち着いた雰囲気のカフェは、女性客も多いが、それなりに男性客もいて、二人は落ち着いて旨い昼食を摂ると、一息ついてから書店に向かった。
国内最大級のその書店はフロアごとに部門に分かれていて、目的のフロアまで到着すると珍しそうにルートヴィッヒが辺りを見回して口を開いた。
「随分大きいんだな」
「初めてか?」
「ああ。親父の会社は近くにあるが、こっちに出向くことは殆ど無いからな。ここが出来たのも割りと最近の事だし」
ルートヴィッヒが珍しそうに見渡しているのに、一年も前の事だけどな、と苦笑する。
新しい物事に意識を向けているのも大切な事である。けれども最初からあまり詰め込み過ぎるのもよくないだろう。
「んじゃとりあえず見てみるか。お前の本から先にみようぜ」
「助かる」
広大なフロアを移動して、良さそうなモノを見繕う。本には好みがあるから、似たような本は検分させた。その間にアーサーは種類の違うものを選ぶ。中には今のルートヴィッヒには少し難しいかもしれないものをチョイスする。折角ここまで来たのだから活用しない手はない。
簡単な説明を施しながらこれくらいでいいだろと小一時間を費やすと、ルートヴィッヒの手にはかなりの本が積み上げられていた。よく顔を見ると少し困った顔をしている。
「まあ、3分の1は減るから安心しろよ。本は腐らないし、手に入るものは手にいれておくべきだと思うぞ。後からじゃ手に入りにくいものもあるしな。俺の方も量があるだろうから、まとめて一緒に送っちまおうぜ。そっちの方が手ぶらで移動できるしな。まあ、帰りの電車も暇だろうから一冊くらいは持っておいてもいいだろうけど」
内容を確認できる長椅子に座らせてルートヴィッヒに確認させるものだけ仕分けする。
「んじゃ、こっちはお前が良さそうだと思うものだけをチョイスしとけよな。俺は自分のものを見てくるから」
「…そうか。お前が選ぶ本というのにも興味があったんだが、仕方ないな」
意外な言葉にアーサーはパチリと瞬きをする。それから「ああ…」と頷いた。
「後で購入した本を見せてやるよ」
周りに細かい気を配れと言ったのはアーサーである。購入したリストを見せるくらいわけはない。
「そんじゃあ、また後で。時間が余ったら本は店員に預けて他のフロア回ってていいからな。終わったら電話するし」
言い置いて、目的の場所に移動する。欲しかった本を取り出して、後は読んでみようかなと思っていた分野にも手を伸ばす。
(他には…)
バイルシュミット家の事業の分野のモノにも手を出したほうがいいだろう。知っていて損はない。他には語学ももう少し広げたい。
そう思って分厚い書籍に手を伸ばして一冊一冊検分していく。
(あ)
サクサク進めた筈なのに、気が付いたらもう一時間が過ぎていた。
(やべっ)
アーサーの用事について来ると言ったのは向こうなのだから、待たせてしまってもいいのだろうが、やはり気にはする。慌ててそれなりの量がある書物を預けると、フロアを移動した。
欲しい本はまだ他にもあるのだ。
折角来たのだから、リサーチくらいはしておきたい。
「…あ?」
移動先は料理コーナー。今はまだ規制がかかっているし、今日も指を切ったばかりだけど、知識ぐらいは増やしておきたかった。これだけ別に購入してこっそりと読んでおこうと思ったのに、先客がいた。
「…アーサー」
気がついたのか、ルートヴィッヒが顔を上げる。彼が手にした本に目をやると、照れ臭いのか苦笑した。
「…今日の礼にと思ったのだが…、見つかってしまったな」
「…俺に?」
手にしているのは、ルートヴィッヒには全く必要の無い初心者向けの料理本だ。
問うと、目許を染めて「ああ」と頷く。女性ばかりのコーナーで恥ずかしかったのかもしれない。
「…助かったからな。それに、毎日頑張っているだろう?」
もう少ししたら他の作業も教えてもいいかと思ってな、と言われてちょっと感動した。
凄く、嬉しい。
「…この本がいいと思うので、買ってこようと思うのだが、いいか?」
尋ねられてコクリと頷く。本の中身がどんなのかなんて知らないが、その心遣いが嬉しかった。ラッピングされた本を受け取って「ありがとう」と気持ちを込めていった。
「…喜んでくれたのなら、良かった」
照れくさそうに言われて笑みが零れる。特に一緒に何かしたというわけではないけど、とても嬉しい。
上機嫌で、預かって貰っていた本をまとめて家へ送る手筈を整えると店を出た。
少し休憩しようかと、手近な店に寄ってコーヒーを頼む。
「他に寄る所があるのだったか」
「ああ。ちょっとDVDを見たいのと、後は手芸店だな。お前は何かあるか?時間が足りなさそうだったら別行動でもいいぞ」
「いや、俺の方は特に用は無いから付き合うぞ。DVDは何を見るんだ?…まさかホラーか」
「ああ…ホラーはしばらくいい」
好きだけど、持っているのを見つかって『一緒に見ようぜ!』などと言われては堪らない。一緒に寝てやる事自体はどうでもいいのだが、何しろ秘密を抱えた身だ。余計なことはしないに限る。
だから、ホラーは、ない。
「ちょっとAVコーナーに寄りたくてな」
「ぶはっ!」
「うわっ!てめ、何すんだよ!」
目の前に座っていたルートヴィッヒがコーヒーを噴き出して、顔面に受けてしまった。
器官の中にでも入ったのか、げほげほと苦しそうに咳き込んでいるルートヴィッヒにそれ以上文句も言えず、ハンカチを取り出すと顔を拭って服を拭いた。
(…誰かと出かけると服が濡れる呪いでもかかってんのかよ…)
2週連続で濡れるなんてついてない。しかも今回はコーヒーだ。染みになってとれないかもしれない。
「…す、すまない…」
まだゲホゲホ言っているルートヴィッヒが涙目で謝って来たので溜息をついて「別に」と返す。確かにちょっとアレな事を言った自覚はあるけれど、そんなもの男子高生の会話の範疇内だろう。
「お前だって色々持ってるんだから、そんなに驚く事ないだろ?」
ガコン!
「って次は零すのかよ!」
やっと落ち着いてきたらしいルートヴィッヒが今度は手を滑らせた。テーブルを転がるカップから、コーヒーが伝って来る。
「うわ…!」
慌てて避けたが、引っ掛けてしまった。
「大丈夫ですか、お客様」
思わず飛び出しかけた罵声は、店員の女性の出現で喉の奥に消えた。紳士たるものいかなる時も慌てず騒がずだ。
「騒がせて、すまない」
紳士然として対応して、綺麗にして貰ったテーブルに座りなおす。「何かありましたら声をおかけくださいね」との言葉に礼を言って受け取っていたお絞りで手を拭いた。ズボンも軽く拭ったが、これ以上は無駄だ。彼女が消えてからアーサーは盛大な溜息をついた。
「一体お前は何やってんだよ」
「本当にすまない…。しかし、お前だって悪いのだぞ…。急にあんな………とういうか、何故知っている…」
こちらの責を問う言葉には、年上の情けとして聞き流してやった。これ以上ないくらいに真っ赤になっている人間を責めるのはちょっと可哀想だ。
「…お前の兄貴が初日に教えてくれた」
「!」
こめかみに青筋が立ったのを見届けながら、アーサーは肩を竦めた。このままでは、ギルベルトが酷い叱責を受けるに違いないが、そんなものは自業自得だ。アーサーが知りたくて聞いたわけではない。
「…なあ、DVDは諦めてやるから、服を買いにいかないか。このまま帰るわけにはいかないだろ?」
「…あ、す、すまない…」
視線の定まらないルートヴィッヒに謝られて、アーサーはもう一度溜息をついたのだった。


近くのブティックで服を着替えて手芸屋により、家路を辿りリビングに到着すると、ルートヴィッヒが烈火の如く怒り始めて、アーサーは軽く頭を掻きながら、正座させられているギルベルトを尻目に部屋に戻った。
兄弟喧嘩というか一方的な制裁だが、首を突っ込む謂れはない。とっとと部屋着に着替えると、いそいそとルートヴィッヒに貰った本を開封して読み始めた。時々怒声が耳を突くが気にはしない。
(あ、結構読みやすいな…)
まずは一品、というコンセプトで、初心者の中の初心者向けの本だった。アーサーはページを繰りながらなるほど、と頷いた。これならアーサーにも合いそうだ。
しばらく読み耽っていたけれど、まだ説教は終わらないらしい。ルートヴィッヒの声が未だにアーサーの部屋まで届いている。時計は7時を越えているから、夕飯は遅くなりそうだ。
(……キッチンに移動してみるか)
とりあえず、サラダの用意くらいなら一人でだって出来るだろう。一人で台所に立つなと言われてはいるが、サラダはもうアーサーの担当なのだ。火も使わないし…まあ、いいだろう。
アーサーは本を閉じてリビングに移動すると、一応ルートヴィッヒに声をかけた。
「おい、ルートヴィッヒ」
しかしこちらの声は届いていないらしい。よほど恥ずかしい思いをしたのだろう。
(まあ、特殊な趣味を知られるのは恥ずかしいかもな…緊縛モノとか…)
スパンキングもあった気がする。
ギルベルトがこちらに気付いてルートヴィッヒに声をかけたが、一喝されて終了してしまったので、「台所借りるぞ」と声をかけてキッチンに移った。この場合声をかけたという事が重要なのだ。たとえ聞いていなくとも。
冷蔵庫を開けて、野菜を取り出すと、慎重に包丁を握る。ゆっくりと野菜を切ってほっと息を吐いた。サラダはもうドレッシングをかけるだけだ。
あとは…と、瞬間迷う。
(…まずは一品か…やってみっか…)
この分野はまだ任されてはいないが、だが今日貰った本に書いてある本に書いてあったスープのレシピは紅茶やコーヒーを入れるのと何が違うのだ、というくらい初心者向けのものだった。
もしかしたら、言いつけを守らなかったと怒られるかもしれないが、アーサーは大変うずうずしているのだ。やってみたいという好奇心が抑えきれない。
(…まあ、男は度胸っつってな…)
声をかけたのに気付かない方が悪い。
そう責任を押し付けてアーサーはきらりと光る包丁を手に取った。玉ねぎを切るくらい、お手の物だ。涙が流れて時々手を切ってしまっても、多分お手の物だ。
うっかり切ってしまっても、一人で手当てくらいできるし、何の問題もない。
(ほらな!やれば出来るんだよ!俺だって!!)
鍋の中に薄切りっぽい玉ねぎと、コンソメと塩コショウを分量ぶん入れると、玉ねぎを切っている間に沸かした熱湯を注ぎいれた。それを混ぜて飲んでみると、一応スープになっているではないか。流石初心者中の初心者用の本。行程が簡単だろうと、殆どインスタント状態だろうと、成功するのは嬉しいものである。
アーサーは鍋に蓋をして、鼻歌を歌いながら買い物にでかけた。作れるだけでいいじゃないというコンセプトの本なので、最初の主菜はレトルトだっていいじゃないというものだったのだ。確かに最初からてんぱって全て作るよりかは、作れるものから作った方が失敗もなく楽しいものかもしれない。そんなワケで、パンとレトルトのハンバーグを買って帰ったら、流石に正気に戻ったらしいルートヴィッヒが居間にいた。
「今日は本当に悪かった…」
「まあ、別にいいけどな。それよりギルベルトは…」
「兄貴は部屋で謹慎だ」
「…なるほど」
しかしまだ怒っているらしい。当然夕食は抜きなんだろうな…と思いつつ財布を置いてくると部屋に戻ってからリビングに顔を出した。
「あのさ、これ、レトルトなんだけど」
「悪いな。では温めるか。…それとスープを作ってくれたんだな。ちゃんと美味しいではないか」
どうやら見つけてくれたらしい。初めて成功した料理を褒められて、アーサーは表情を抑えきれずに「おう!」と微笑んだ。


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