■【冬の陽だまり・夏の影】■ 23

 彼女が愛おしい。
 と、私は何度となく、その身をこの胸に抱きかかえながらそう思った。
 その拗ねた顔、怒った顔、赤くなって困った顔、笑った顔。
 私が欲しいと思っていた、
 私が欲しいと思っていた、夜神月へと向けられるひたむきな愛情を、微かでも確かに注がれていると感じる瞬間が、私には至福の時だった。
 そして、私はそれを夜神月に取り返されることが不安で仕方がなくなっていた。
 なぜならば、彼の執着が恋である事を私は彼よりも先に気づいてしまったからだ。
 ましてや、えるは夜神月を嫌いになったわけでも、恋を失なったわけでもない事は分かりきっている。彼がその気持ちに気付いたとしたら、一体どうなる?
 万一、彼が自分の気持ちに未だ気付いてなかったとしても、えるの気持ちがどうなるかは分からない。奪うように向けさせた視線の多くが彼に戻っていくのでは無いかと恐れた。
 そして、やはり、というべきか。手を離せば地面に落下するのと同じで、えるは近くにいる夜神月を意識せずにはいられないようだった。彼女は私と会う時にはその欠片も意識させないようにと努めていたように見えたが、恋を、唯一の存在を知ってしまった私に、それは隠しきれない事実で、何度私はその嫉妬に狂っていつかのように彼女の意志に反し押し倒してしまうのでは無いかと限界のギリギリを幾度も彷徨った。勿論それは押し隠したが、彼女には知られていただろう。
 その衝動を抑えてくれたのは、一重にルゥの存在があったからだ。
 彼女がルゥを拾って来て、一年と半年を一緒に過ごしたルゥの存在があったからだ。
 そして、私が真実、彼女に愛されていることを知ったのも、
 約束を一度だけ破ってしまったことも、
 近くて遠い未来に、私が彼女を手放してしまう一言を言ってしまったのも。
 擬似かもしれない、私達のままごとのような家族を持つことへの切望を、叶えてくれた一匹の子猫。
その存在があったから。

 ルゥの死を、私は悲鳴のような一本の電話で知らされたのだった。




【冬の陽だまり・夏の影】
―22―



『照さんっ、助けてっ…』
 その声を確かに聞いた。


 それは、照が高校に上がり、最初の冬をむかえた12月の寒い日の事だった。
 枯れ枝が月明かりに一層寒く、名残惜しそうに落ちた葉が寒風にひゅるりと駆け抜けて行った。
 照は、剣道部の合宿の消灯を間近に控えながら、連絡をとるか、とるまいかと悩み、携帯に目線を落とした。
 今朝のえるからの連絡は、ルゥが風邪をひいたようだ、というものだった。
 心配なので、マンションに泊まるとえるは言ったが照は反対した。余り時間が無かったので、説得する間もなく、電話を切ってしまったが、えるは保護者のもとに戻ったのだろうか。
(大丈夫でなさそうなら、病院へ入院させろとはいったが…)
 何度か着信をいれてみたが、戻ってこない事が心配で、そう距離も離れていない自宅の方向を照は眺めた。優秀で品行方正でありつづけた照だから、心配事があれば、合宿を抜け出すこともそう大変ではないだろう。
 何事もなければいいのだが、あってからでは遅いと、照は上着を羽織り身支度を調えると、顧問に明け方には戻る旨を伝えて施設を後にした。
 夜も遅いので、タクシーで自宅へと戻ると、見上げた自室に明かりは無い。
 やはり動物病院に預けたのか、と思った瞬間、手の中の携帯が震えて、その通知された着信相手の名前を見て、すぐさま通話ボタンを押した。
「りゅうざ…」
『照さんっ、助けてっ…』
 名前を呼ばれたとか、助けてと言われたことよりも。
 えるの悲痛な叫び声が胸を突いた。
『ルゥが…ルゥが死んでしまいます…っ!圧迫点を押しても、血が止まらなくてー…』
「竜崎、今はどこだ、病院か?…すぐに行く。」
『はい、先生に今預けて―…』
「何があった?事故なのか?お前に怪我はないのか?」
『ルゥの具合がいつもより悪くて、病院に行こうと思って…、どうしてもっと早く連れていかなかったんでしょうか―…。いつもの風邪と思って、私ー…、焦ってキャリーケースにルゥをいれて、病院に急いで―…、でも、途中でルゥが暴れだしたから、私、ケースを開けてしまったんですっ…。時折癇癪を起こす子でしたから、抱いてつれて行ったほうがいいと思って…、でも、暴れていたから、すぐに抱き上げることが叶わなくて、道路に飛び出してしまって―…っ』
 ギリギリで冷静を保っている、というような声に、照は携帯を切ることはせずに走りだした。これ以上早く走れない足が憎いが、今は走ることしか出来ない。
「そうか、そこの、先生の、腕はいい。お前だって、知って、いるだろう?」
『はい…。はい…。そうです、いつも痛くないように注射も打ってくれて―…』
「お前に、怪我は、ないのだろうな?」
 携帯を切る行為はえるの精神の最後の一本を切る行為だと直感して、息を切らせながら言葉を繋ぐ。言葉の内容で判ってはいたが、その安否を尋ねる二度目の質問に、今度は『ありません、私はー…』と今度は返答がかえってくる。そして、その涙ぐんだ声と共に電話越しのえるの空気が、一気に揺らめいた。
『私が、飛び込めていれば…』
「バカをいうな」
『でも、だって、ルゥはヘッドライトで目が眩んでしまって―…』
「お前ごと轢かれていたら、誰がルゥを病院へ運ぶのだ?誰がルゥの止血点を抑えられるんだ…っ」
『でもー…私―………、』
 えるの言葉を待つ、その一瞬の静寂がやたらと耳に痛かった。
 声を、と思った。なんでもいいから思った事を伝えてくれれば、返すことが出来る。そう思った次の瞬間、照に力ずくで犯された時でさえあげなかったえるの悲鳴が電話越しに響いて消えた。
「イヤ―――ッ!!!!!そんなの嘘ですっ!!お願いっ、お願いぃっ!!ルゥを助けて―っ!!」
 その天井を引き裂くような悲鳴に次いで落下音と共に通話が途切れる音がした。今度はもう走ることだけに集中して、会話で時間を稼いでいる間に、目の前になった動物病院の明かりの漏れる入り口へ飛び込んだ。
「竜崎っ!!」
 先生に掴みかかるえるを背後から抱きとめる。
「竜崎ッ!!」
「イヤっ!嫌ぁっ!!放して!!ルゥ!ルゥ…っ!ルゥ―――!!!!」
 今一度絶叫すると、今度は振り切れたように、その体がガクリと落ちた。
 その間、えるに対する鎮静剤を投与するかどうか悩んでいた医師は、それをそっと無かったことにすると、照に向けて首を振った。それから「明日」という単語を聞いて頷きルゥの血にまみれたえるの体を抱き上げて、呼んで貰ったタクシーに乗り込んだ。
 動物病院から、ということで、えるの格好にも目を瞑ってくれたタクシーから降り、悄然と項垂れたえるを引き摺るようにして部屋に連れていく。
 部屋に辿り着くまでは静かだったえるが、ドアをくぐり、ルゥが生活していた空間に入り込んだ瞬間、大きく目を見開いて再び絶叫するのを、照は唇を塞ぐことで無理やり奪い取った。
 ドンドンと殴られる痛みよりも、胸の方が痛かった。暴れまわるえるを押さえつけて、震えるからだを抱きしめる。悲鳴はすべて飲み込んで、途絶えたところで、溢れた涙を拭ってやった。
「…私がルゥを…」
「お前のせいじゃない」
「キャリーからださなければ…」
「不可抗力だ」
「あなたの言葉に従ってすぐに入院させていれば…」
「その時だって暴れていたかもしれない」
「いっそ私が拾ってこなければ…」
「…でなければ、あの子は名前すらつかずに死んでいたのではないか」
「………」
 真っ黒の瞳が、夜陰を照らす月の光で一層黒く光を弾いた。
 大粒の涙が眦からとめどもなく溢れて、落ちて―…。
 もう一度、えるが『照さん』と口にした。
 それから『助けて』と。


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