■【この闇に沈む】■ 03

*

青年の姿を認識した途端、洪水のように記憶が押し寄せた。
…思わず呟いた名前。
相容れなくて、一番厄介だと思っていた男の名前。
その名前を聞いて青年がぱちくりと目を瞬かせた。
「何故、…吸血鬼が私の名前を?」
吸血鬼なんていたんですね、と続く心地よいアルト。
満月が黄金色に辺りを照らす。僅かばかりの光源でも吸血鬼である月の目には十分すぎる明かりだった。月は目の前の青年を記憶の中の青年と照合させるように凝視した。
…少しばかりボサっとした、癖のある黒い髪。
…青白い肌に目の下の濃い隈、極端な猫背。
…唇を弄る独特な手付き。
…奇妙な癖だらけの…。
L。
青年もその名前を認めた。
(あいつだ)
去来した記憶に蘇る膨大な感情。オーバーワーク気味の脳は声帯に音源を運ばない。
(…なんで、お前が)
思考がぐらつく、息が上手く吸えない。そんな月を尻目に青年が小首を傾げるのが見えた。そして動物よろしく鼻をひくりと動かすと「大丈夫、ですか?」と顔を近づけた。
「怪我をしていますね、人間にしてやられましたか?」
「誰が。これは同族を殺った時についたものだ」
「同族。」
『人間(なんか)にしてやられた』その屈辱的な台詞に反射で負けず嫌いな台詞が口をつく。
血肉がたぎる感覚。幾久しく忘れていた衝動。
最優先事項は牙と翼を瞬時に隠し、青年に自分を人間だと思い直させ丸め込んで窮死に一生を得る事だ。なのに、生死を超えた本能が『生きる為に生きたい。退屈はもうこりごりだ』と訴える。死にかけているというのに腹の底から熱いものが込み上げた。この男が彼ならば、この姿と名前に相応しい頭脳を持っている筈だ。ならば、燃え尽きる最期くらい…。
欲求に抗えず仄暗い笑みが口端に浮かぶ。
「…手当たり次第、欲望のままに人間を襲い吸血鬼を増やす輩だった。僕はお前達人間の為に戦ってこのざまだ」
青年の真実を呑み込もうとする沈黙を、鼻で笑う。
もう後戻りは出来ない。
記憶の中にある、まるで昨日の事のような強烈な感情。
神になるのをLの後継者に阻止された挙げ句、こんな果てない歳月を経てまでこの男はこんな姿で以て嫌がらせをする。月の息の音を止める為に立ちふさがるのだ。なんて厄介で面白い男だろう。
今まで感じて来た死の恐怖など跡形もない。可笑しすぎて笑ってしまう。
「まあいい。お前が世界の救いを殺す存在なんだとしたら…面白過ぎてこのまま死んでやってもいい気になって来たよ」
「…はあ。よく喋りますね…」
カチンと来た。
どうして平静でいられなくなるのか分からないくらいこの男の言動は勘に障る。
せっかく己の死を楽しく迎えられそうだったのに。
疾うに悟りきった、はたまた捨て去った感情がマグマのように吹き出しそうになるのをこらえられない。


僕という存在
その根源が
濃く鮮やかに。
力強く。
息を吹き返す。

「…困りましたね」
「何がだ」
月の頭上からとぼけた声がする。
彼の姿を持った青年は唇を弄りながら月を見下ろした。
「私、探偵なんですよ」
「…それが、どうした」
「連続失踪事件にはいつも血痕が残されており、決まって真夜中に起こるんです。犯人を捕まえに来たんですが、…吸血鬼という生き物が存在し、その数も未知数とは予想外です。つまり貴方を捕まえただけでは事件は解決しない…。私、困ってます」
「……だから、何だ。そんなこと僕には関係ない」
「察するに、貴方はこのままでは死んでしまうのでしょう?…取引、しませんか」
「取引?」
「貴方は私に吸血鬼の情報を与える。代わりに私は貴方に血をあげましょう」
「ははっ!何を馬鹿な」
思わず笑ってしまった。
(Lがキラを救うだって?有り得ない。幾らLが手段を問わない奴だからと言って、キラだけは)
「お前があのLなら、お前は自分を犠牲にしてまで事件を解決しようなどという気はさらさら無いよ。そんな子供騙しに僕は乗らない。取引は成り立たない」
「子供騙し?」
「『失踪』ってコトはそいつらも吸血鬼になったんじゃないかっていう理論がさっきの僕の言葉で推論出来るだろ?お前にしても、よしんば他の人間にしても、自分が他人の血を求める吸血鬼になってまで他人を守ろうだなんて思う筈が無い。二度と太陽を拝めない呪われた体になんか!」
「…そうだったんですか?」
「………」
『貴方は「そう」だったんですか?』
そう問われて言葉に窮した。気軽にYESともNOとも言えない雰囲気だった。代わりに月は青年の言葉の穴を突いた。
「…お前は『僕に血をくれる』と言ったけど、お前の血をくれると言ったわけじゃない。僕達吸血鬼は動物の血なんか吸わないからな」
「ならば、私の血を貴方に与えるというのが嘘でなければ、取引は成立しますよね」
「…それがお前に出来るんならな」
「では、取引成立です」
ひたりと青年が一歩月に近寄る。ぎょっとして青年の黒光りする目の奥に真意を探した。
「簡単ですよ」
青年はニンマリと笑うとおもむろにポケットから手錠を取り出し、あっという間に月の両手首を拘束すると、机からペーパーナイフを取り出した。
「やっぱり僕を殺すんじゃないか」
「違います」
こうするんです。
そう言って青年は自分の手首にナイフを滑らせた。


甘い香りが部屋中に満ち溢れる。
気が狂いそうな、喉の渇きを思い出した。
多分、暴れたと思う。
目の前が赤くなった。死ぬ間際に一瞬だけ強く爆ぜる刹那の悪足掻き。
予想通り、暴れるだけ暴れた体はピクリとも動かなくなった。
けれど、死ぬ事は無かった。
漫然と死を迎えるだけのぼやけた思考の内にそれを知った。
乾きを潤す誰かの血液が唇から注がれる。
喉がこくりと上下した。
生命の維持に必要なだけの量を摂取すると、月は完全に気を失った。


*


緩やかに鼻孔をくすぐる甘い匂い。
きちんと洗われたシーツからはシャボンの匂いもする。
陽が昇るにつれて、部屋の温度は高くなるが、空調の良いこの部屋はとかく気持ちが良い。
このまま微睡んでいたい感じ。もう少し寝坊したなら、燦々と太陽が降りしきる晴天の空をバックにアイツが好むパンケーキ形式の朝食とレモネードでも文句は無い。むしろそうしたい。
ちょっとした気分転換にチェスなんか楽しそうだ。
気持ちの良いサンルーム。ご機嫌な余暇。
「月くん」
「…んー?…竜崎、もうちょっと…。ここんとこ殆ど寝て無いだろ?も、少しだけ」
「…分かりました。では本部には連絡を入れておきますので」
「…ん」
月の軽い返事に竜崎がベッドサイドの受話器を取るのが感じられた。
皆も寝不足だったからか、月の意見は全体の意見となって午前中はフリータイムになったらしい。偶の午前中くらい休みになったってきっと罰は当たらない。
「月くん、午前中お休みになりましたのでお昼まで寝てていいですよ」
「や…、10時には起きるよ…だから、時計セットして…お前も寝たら?」
「私は結構です。もう眠くないです」
「何言ってるんだよ、万年寝不足の隈持ちの癖に」
月はちょっとだけ笑って、それから眠気に逆らえず瞼を下ろした。

再びとろとろと揺蕩う。
眠りの端から命が指先にまで行き渡り、意識が浮上する。
微睡の揺り篭に揺られる最中、覚醒を促すように声が聞こえた。


月くん
月くん
時間ですよ


もう、そんな時間?
そういえば、お腹ペコペコだよー…


「………」
ゆっくりと目を開ければ、明るい太陽の陽射し。
舞い踊る光の粒子。
鼻孔を擽る美味しそうな甘い香り。
視線をやれば注いだばかりのレモネード。焼きたてのパンケーキに、ディスペンサーには蜂蜜がたっぷりと。
幸せの象徴。
その全てが瞼の裏に消えた。
見慣れ過ぎた闇。
溜息さえ出ないいつもの絶望。
「………」
軽く息を吸って片腕で瞼を覆った。ジャラリ、音がして異変に気付く。
「起きましたか」
気配のある方に頭を動かすと、月光を頼りに本を読む青年の姿があった。右手に光る銀色の輪。それを嵌めた男の面がゆっくりと上がる。
「お早う御座います、Moonlightくん」

2009.06.30


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