■【この闇に沈む】■ 02

*

全てが夜に染まった空は、狭く息苦しい。
闇という名の足枷を嵌められた月は、鬱陶しそうに纏わりつく夜風を切りながら、人目の無い場所に着陸した。
生き長らえる為には、その存在を隠し通さねばならない。人目の無い場所を選んだのはその為だ。
月は着地早々、リュークが持っていたコウモリのような翼を折り畳んでから内部に同化させた。これで外見はただの人間だ。
「…ん?」
歩きで街の中心部へ繰り出そうとした矢先、空を横切る異物を発見した。それは夜目の利く鳥でも飛行機の類でも無い。月は思わず舌打ちをした。
「馬鹿が…!」
それは月の同族であった。同族は何の躊躇いもなしに街へと突っ込んで行く。月は悪態を吐くと羽を広げて後を追うか逡巡した。追いかければ、月が人間に目撃されるリスクが伴う…。
「…この辺のは狩り尽くしたと思ったが…」
月が人外の力を持っているのにこれほど身の周りに気をつけるのは、その力が万能では無いからだ。
いつだか与えられた死のノートの力と同じ、長所もあれば短所もある。
この力にしても、得る為に太陽の恩恵を犠牲にしたのは明白で、故に月が保護対象としている人間を彼は脅威とも見做しているのだった。
だが、大半の吸血鬼は圧倒的な力に酔い慢心してしまって無頓着だ。
…今、月の前を横切った同族などまさにそれ。
大半の吸血鬼は元人間で、彼らは人の時分に、夜の恐ろしさを、げに恐ろしき吸血鬼の話を綿々と聞き継いでいるからだろう、思いもつかないようだが、本来吸血鬼にとっても人間は脅威なのだ。
多くの吸血鬼が慢心する異能。それは馬鹿力の類であったり、洗脳の力であったり、飛行術であったりと様々で、これらの能力は食事を行う為に吸血鬼が磨きあげて来た最大の進化だと認めてもいい。
しかし、個々の能力ではさしたる事も出来ない人間には、それを補う力がある。
それは太陽の力。時間を制限されないという力だ。
吸血鬼は太陽が顔を出している間は、赤子のように無力。その弱点を突かれれば致命的だ。それが無くとも徒党を組まれれば襲うのは容易でなくなる。だからこそ食事の対象である彼らを天敵と見做し、吸血鬼の存在は伝説程度に留めるべきだというのに、目撃者に無頓着な理屈の分からぬ馬鹿が、目の前を横切った。
「…最悪だ」
今の月は空腹で万全では無い。戦えば残りの力の大半を削るだろう。そうすると、早急なエネルギーの補給が必要となり、質を選ぶ暇が無くなる。
月が食事の後始末をすれば吸血鬼が増える心配は無くなるが、またその分労力が必要だ。この人間社会に死体を放置したままでなんていられない。奪い、殺し、遺棄をして安全な塒に帰るその手間を限られた時間でこなさないといけないのだと考えると憂鬱になる。しかも、質を吟味する時間が無い、という事はまた数日中にエネルギーの補給を考えなければならない可能性がある…という事だ。それも今横切った馬鹿が今日までに作った同じ穴の狢を始末しながら。
とりあえず力が万全になるまで放置してしまいたい気分に駆られる。しかし奴らは限度や節度なんか考えやしない。一匹見たら3百匹いると思え…な黒い昆虫では無いが、放置すれば鼠算的に増えて行くと分かっていて見過ごす事はできないし、今、手を打つ方が長い目で見れば手間がかからない。
月は翼を広げた。
そして同族の後を追いかけたのだった。





長い間生き長らえている月は、飛行も上手い。まもなく同族に追いついた。運のいい事に間一髪。夜歩きの女性が犠牲になる寸前だった。
弾丸のように同族の男に突っ込むと、男はトラックに跳ねられたかのように遥か上空へと吹っ飛ばされた。ターゲットにされた女性が異変に気づき辺りを見回した所で姿など見えないだろう。
「何だ、テメエ!」
いかにも軽そうな容貌だった。茶色に染めた髪、小太りした体、不精な髭、根性の悪そうな人相。男は月を識別するとケッと唾を吐いた。
「アレはオレの獲物だ!優男がこのオレ様から獲物を奪おうだなんて百年早ぇんだよ!オレを誰だと思ってる?渋井丸拓郎、略してシブタク様だぞ!」
…どこぞで見聞きした覚えがあったような名前と容姿だったが、幾星霜の時に埋もれて思い出せない。だが、思い出せずとも構わない。穢らわしい虫は排除するだけだ。
月は月光を背にして微笑んだ。
「僕が誰でも、君が誰でも、構わない。…死んで貰うよ」





空腹のせいか、はたまた拓郎が粘ったからか、思ったよりも始末に時間が掛かった。その上こちらも思いがけない手傷を追った。
「…くそっ」
夜明けが近く人通りも無い中で、傷を負ったままどこかの家に侵入して食事を取る事など出来そうにも無かった。抵抗されれば、悲鳴でも上げられ誰かが駆けつければ、只人にさえ息の音を止められそうだった。
だから拓郎の遺骸も放置したままその場を後にしたというのに傷の治りが遅いせいで塒にすら辿りつけそうも無い。舌打ちさえする余力も無いまま月は太陽から身を隠す場所を探さねばならなかった。
(…あそこにするか…)
飛距離が延びず、まだぽつりぽつりと民家があるのは不幸中の幸いで、月は木立が多く太陽を遮断出来、また、より人気の無い家を上空から物色するとその家の庭に降り立った。
人の匂いを検分する。…ビンゴ。甘い香りが1つ。恐らく老人の家だ。老人ならば今の月にも勝算はある。叫ばれたとて、隣家から人が駆けつける事もない。…憂いがあるとすれば再びあの軽い体を軽くする、忌まわしい体験をしなければならない事だが、背に腹は代えられない。
空腹は最大のスパイスだからか、壁を隔ててさえ喉が鳴るほど甘く感じられる。本能が体中を満たすのが感じられる。もう直ぐ理性の手綱が引きちぎられるだろう。…躊躇っている暇など無いのだ。
月は力を使い、寝室の窓の錠前を解除すると、音を立てないように乗り込んだ。
細い月光が室内を、上掛けを頭まで被って丸まっている獲物を、薄く照らしている。

飢えに、喉が鳴った。
食事を摂ろうと牙が伸びた。
襲い掛かろうとした瞬間ー…
「!?」
上掛けが月に迫り、鳩尾に鈍い衝撃が走った。次いでしたたかに背中を壁にぶつけて呼吸が止まる。
「…こんな夜中に賊…」
月を蹴り飛ばした老人…いや、青年の言葉がぷつりと途切れた。
「…吸血鬼…本当にいたんですね」
理性的な落ち着いた、声。
月光を背にしたシルエット。
遥か昔…遠い昔の記憶。

「………………竜崎」


自分以外の人間を認識する記号が月の口から滑り出だした。


続く。


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