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その暖かな記憶が、まだ目の前に残っていて、ギルベルトを一気に追いつめた。 客がいる、しっかりしなければいけない。 そんな建て前の虚勢はあっさり破壊されて、ギルベルトはただ嗚咽を漏らした。親父、と喉の奥が引き攣れるように音を絞り出した。 どうして、こんなに早く。 ギルベルトももう社会人になる。だからきっと今までよりも親父とはすれ違う事になっただろうし、いつかはこの家を出ていくこともあるのだろうとは思っていた。 でも、でも、こんな筈ではなかったのだ。 声も聞けない、顔も見れない。名前を呼んでも貰えない。 ギルベルトが親父に何をしてあげる事も出来なくなってしまった。 男手ひとつで育ててくれた、その恩返しをする事が一つも出来なくなってしまった。 どうしても涙が止まらない。 さよならも、さよならの覚悟をする事も出来ずに逝ってしまうなんて、とんでもねぇ親だとギルベルトは罵りながら体を震わせた。 会いたい、会いたい。でも相手はもう灰だ。 「ギルベルト」 泣き過ぎたのか、頭が酷く痛かった。そこに酷く静かな声が落ちて、ギルベルトは反射的に顔を上げた。 「良かったら、飲めよ」 親父の霊かと思ったが、そこにいたのは先程ギルベルトが自ら招き入れたばかりのアーサーという男だった。手には、ギルベルトが割ったばかりのカップの片割れと、その中に紅茶が注がれていた。 「………甘ぇ」 深く考える事もなく、その手からカップを受け取って、ギルベルトは並々と注がれた液体を啜り込んだ。 鼻が詰まっていて、匂いはよく分からなかったが、とても優しい味がした。 ひからびた体に水分と、糖分が緩やかに満ちていく感じが、した。 最後の一滴まで残さず飲んで、カップを置くと、糖分を摂った体が一応の満足を見せたのか、それとも少しだけリラックス出来たのか、急激に眠気が襲って来て、ギルベルトはゆっくりと意識を手放した。 カチャカチャと食器を合わせる音が聞こえて、ギルベルトはぼんやりと頭を覚醒させると、まどろみの中で幸せな朝の音を聞いた。 ちゅんちゅんと外では雀の囀りが聞こえて、部屋には柔らかな朝陽が満ちていた。くん、と鼻を啜れば美味しそうな朝食の匂いが肺に吸い込まれたし、耳に届く雑音は何でもない日常の朝の音だった。 ギルベルトはむくりと起きあがって、瞬きをした。 どうやら、ソファで寝ていたらしいが、どうしてこんな所で寝ていたのだろうと首を傾げる。お陰で体がバキバキで、伸びをしながら辺りを見回して、息を詰めた。 何でもない、毎日の朝。そんな音がしたから、勘違いしてしまったが、 親父はもう、いなかった。 反射的にぶり返しそうになった涙を唇を噛む事で辛うじて堰き止めて、音のするキッチンへと足を向けた。もしかしたら、覚えていない内に悪友でも呼んだのだろうか。それとも、寂しさの余りに街で女でも引っ掛けたのだったか。 正体不明の音の主を確認するために顔を覗かせて、ギルベルトはやっと昨日の事を思いだした。 確か、アーサーとか言っただろうか。 親父の部下の何かで、少しの間ギルベルトの家に下宿をする事になっていたと説明されて家に招き入れた男だった。 「おはよう、ギルベルト。すまない、勝手にキッチンを使っちまった」 開口一番謝られて、ギルベルトは短く「いや」と返して一度口を噤んだ。 招き入れたは良かったが、アーサーとどうやって向き合えばいいのか分からなかった。 今もまともとは言い難いが、特に昨日は、通夜や葬儀のあれこれが終わって、一人になって、どこかおかしくなっていたのは自覚している。 今更見も知らぬ男を目の前にどうした態度をとっていいのか分からずにいると、 アーサーはそれを悟ったのか、「詳しい事は食事をしながらでもいいか？」と言ってテーブルを指さした。 朝食の席で聞いたことは、 生前の親父が、亡くなるほんの数日前に、アーサーの部下の困りごとを引き受けたということだった。 その困りごとというのは、新入社員の入社に及ぶ人事異動で、地方に転勤しなければいけなくなった部下の従弟…つまりアーサーの身寄りが他にはなく、部下ともども清貧な暮らしをしていた事もあって、春からの大学生活をどこで暮らすかという問題に、ならばと口を利いてくれたのが他ならぬ親父だったという事だった。 確かにウチは、男二人で暮らすには、大きな家に住んでいる。一階にはリビングに、ダイニングキッチン、脱衣所兼洗面所、バス、トイレ、パントリーなど、暮らしに欠かせない基礎部分はしっかりと存在していたし、二階には親父の寝室にギルベルトの寝室、ウォークインクローゼット。それから余った部屋は親父の書斎と、それから物置という具合で随分と手広な暮らしを営んでいた。確かにこの男一人を引き受けることくらい何てこと無いだろう。 そういえば先日、物置になっていた部屋を片付けるようにと言われていたっけな、と思い返し、それはもしかしたら、こいつの部屋だったのかなと思って納得した。 どこかお茶目なウチの親父は、時々サプライズを行ったりする。特に親父の行う事に異論は無いギルベルトだったから、（だから自分の事なんか気にしないで、早く再婚もすればいいのにと思っていたし、言ってもいた）アーサーの事もこの日まで隠しておくつもりだったのかもしれない。 ぼんやりとそんな事を思っていると、アーサーは初日と同じく「こんな時に本当にすまないと思っているが…」と前置きして、ほんの少しだけ、せめて一月でもいいから置いてくれないか、と頭を下げた。 家事でも何でもするし、食費くらいはちゃんと入れるし、迷惑はかけないと語るアーサーの旋毛を見下ろしながら、これも忘れ形見っていうヤツに入るのだろうかと、ギルベルトはどうでもいいことを思った。親父は自分がいなくなってしまう事を虫の知らせかなんかで知っていて、アーサーをうちに呼ぶ事にしたのだろうか。 ギルベルトにとって、アーサーを置くことに不都合な点はない。 短い時間顔を合わせたくらいでしかないが、別に変な奴でもなさそうだし、一月くらいの同居くらい特に何の支障もない。ただ、気になる事が無いとも言い切れない。 一カ月。 それはとても非常に短い。 「なあ、お前さぁ。」 ギルベルトの呼びかけに顔を上げたアーサーをぼんやりと見つめながら続ける。 「行く所無いって言ってたけど、今から大学入るんだろ？奨学金貰ってって事は、後でちゃんと返さなきゃなんねーんだろーが。本当に一月でいいのかよ」 「…それっていうのは…」 「この家広いし、部屋も空いてっとこあるし。卒業までいればいいんじゃねぇ？俺もこれから社会人やんなきゃなんねーし、家事やってくれるってんなら恩の字だ」 （それに、親父との思い出の詰まった一人の家に帰りたくねぇ。） 本音は隠して、適当に嘘でない事を並べたてると、アーサーはほっとしたように「助かった、世話になるな」と微笑んだ。 ------------------------ 家に置いてくれると受け入れてくれた時は、天使の仕事が出来そうだと思ってほっとしたものだった。 side アーサー なんだかどうにも気になって、ギルベルトの後をついて回ったのは、もしかしたら困った奴を放っておけないという天使の勘、みたいなものだったのかもしれない。 困ったヤツっていうのはざらにいるものだが、天使にも担当と区分がある。その中で一番天使を必要としていたのは、きっとギルベルトだったのだろう。 彼の父親が事故にあったとの知らせを耳にして、俺の仕事はきっとこれだと、そう思った。 さりとて、アーサーが使う奇跡の効果などたかが知れている。 天使なのに、と毎回思うが、天使の奇跡なんていうのは、本当に些細なものでしかない。 地上に存在する全ての生き物の運命を狂わせない程度の、でも本来ならば起こらなかった事象を引き起こす、それくらいしか出来ない。 例えば、明日咲くはずだった花をさかせたり、ちょっとだけ、雨をやませたり。空に虹をかけてみたり。人間に直接というのなら、いつも右の道を通るのに、左の道に案内してみたり、ほんの少し怪我の痛みをやわらげたり、幸せな夢に導いたり。どちらにしてもほんの些細な小さな奇跡でしかない。 ただ二次作用としての、運命が変わる、なんていうのはあるらしい。 たとえば、ギルベルトの父親にアーサーがついていたとして、目の前での事故を防ぐことは当然出来ない。向かってくる車から進路を逸らせてやるとかそんな事はけして出来ることではなかった。それは運命を変えてしまう。 ただ、空から地上を見下ろす事の出来る天使様であるからにして、どこを通れば交通渋滞にはまらないか、なんていうのは分かったりはするから、事故にあう前にそっとこっちの道を通った方が幸せになれるかもしれないよ、という幸運の魔法をかけて、結果事故を回避した、という事は充分にありえるかもしれない、というそういう事らしい。 運命なんていうのは、神サマしか知らない。 天使だとて未来は見えない。 だから、天使が後の現象、ギルベルトの父親の例でいうならば、あそこで事故が起こったらしいけど、あの時奇跡を使っていなければ、もしかしたら巻き込まれていたかもしれないね、というような、そういう噂話のような範疇しかなかった。 結論として、やはりいくら天使といえども、人間の運命を意図して変える事はできない、という決定事項の確認である。 ともかく、そういう事であるから、今回、真っ青になったギルベルトの傍に浮遊して、アーサーはどうやって天使の奇跡を実行するか、迷いに迷った。 亡くなったギルベルトの父親の霊を前にして、更に途方に暮れた。 霊を天界に導く役目をアーサーは負っていない。 見えはするし、話せもするが、連れていく役目はアーサーには無かった。 しかし、その役目が無いからこそ、フリードリヒと話すことが出来たのだろうとアーサーは思っている。お迎えの天使は、息子を心配するあまり何度もはねのけているらしい。この辺が人間の運命を左右できないという天使の干渉度を表しているなあ、と思う所である。 天使が亡くなった人間全てを天界に連れていく事が出来るならば、自縛霊だとかそんなものが産まれるはずなど無い。 天使なのに、二人の親子を幸せに導くすべがまったくと言っていいほど思いつかない。 明らかに途方にくれて、ギルベルトの周りを浮遊するアーサーに声を掛けて来たのは、フリードリヒの方だった。 最初は、悲しみにくれた息子が死んでしまう運命を負っていて、ギルベルトを天国に連れていく為に待機している天使なのだと思ったらしい。 それは違うと否定し、また自分の役割を説明したアーサーに、それならば、とフリードリヒは懇願した。 ほんの少しの間だけでいい。出来れば存外寂しがり屋な息子の傍にいてやって欲しい。 そう願われて、アーサーは困惑した。 それは天使の奇跡で起こせる範囲のものなのだろうか。 奇跡は一度しか起こせない。失敗しては困るからと、一度天界に戻って事例を探してくるといえば、祈るように頼むと言われてしまった。アーサーが困りながら先輩天使に話をすると、どうやら出来ないことはない、という答えが帰って来て、ほっとした。 ただし、天使の奇跡は人間の運命を左右させない一度きりの些細な代物だ、という事実は変えられないらしい。 イコール、誰か、例えばであるが、ギルベルトが振られてしまった女の子の気持ちを変えてギルベルトの傍にいて貰うことも出来ないし、ギルベルトの傍に置く為の人間を新しく作り上げることも出来ない。 ならば、どうすればいいか。 アーサーが人間の姿になる、ただそれだけだ。アーサーとしての人間の戸籍も何も用意はされてはいない。 お情けとして、普段アーサーが天使として暮らしていけるほどのものと同じ程度の洋服と多少の金が与えられた程度だった。 だから、ギルベルトに拒否されてしまえば、そこで終了。それ以上の奇跡は起こせない。アーサーの手腕と人柄にかかっているといって良かった。 ただ、アーサーが人間になってそいつの人生に関与するってのは、結構おおごとなんじゃねえの？と思うわけだが、『人間として』ならば、どうやら大丈夫らしい。奇跡の制限ってやつはいつもよく分からないと思う。 続く≫ ≪new[3] NOVEL back≫ [0]TOP。 |